七つ星の行方

文=池内 紀

 

五十五歳のときに勤めをやめた。停年を待たず、自分で区切りをつけた。それまでが前半とすると、つぎは人生の後半部。好きなことだけをして生きようと心に決めた。

十年間は、いろいろなことをした。よく動いた。日本列島の北から南まで、目星をつけていた山に登った。「カブキ学校一年生」と称して、毎月のように歌舞伎座と国立劇場に通っていた。イラストを描きためた。季節ごとに少し長めのヨーロッパ旅行をした。あとで気がついたが、心の生前整理をしていたわけだ。 思いのこすことがないように。

後半部の第一期が終わって六十五歳。 目立って体力に変化が生じた。一番大き な変化を、自分では「部品の劣化」と名づけていた。人体の部品にあたるもの、髪、目、鼻、歯、皮膚、性器などに劣化ないし故障が生じてきた。髪が薄くなる。小さな字が読めない。ときならぬ時にハナが出る。歯が欠けた。皮膚にシミができた。 性器がだらしなくしなだれている……。

第二期の十年を二つに割って最初の五年は、二人の息子がそれぞれ住居を手に入れるにあたり、助太刀をした。生前贈与の税法を利用した。貯金通帳は軽く なったが、そのかわり遺産の心配もなくなった。のこり分は当の夫婦で使いきればいい。もし残れば、息子たちへのボーナスになる。

 

七十七のその先は 三年区切りで

 

七十歳になったとき、おシャレな手帳を買ってきて、扉に「すごいトシヨリBOOK」と書き入れ、ウラに少ししぼんだ顔、そのまわりに七十七の星マークを つけた。そのうち七十の星を黄色に塗った。のこる七つ星。これを塗り終えるときは、もうこの世にいない。ふつうは生きているのを条件にして予定を立てる が、死んでいるのを前提にした。この方がコトを処理しやすいのだ。そのときは生きていないのだから、コレはしておこう。アレもしたい。アレコレすませておきたいことが出てくる。

七十七の前年に何の気なしに、ちょっとした会で「すごいトシヨリBOOK」 の話をしたところ、編集者がいて、それをあらためて話してくれないかとたのまれた。手帳には「すごいトシヨリ」になってわかったこと、気づいたこと、考えたことが、こまごまとメモしてある。それをながめながら話したら、二人の編集者が整理、章立てをして満七十七歳になる 三ヵ月前に小さな本になった。タイトル はやはり『すごいトシヨリBOOK』(毎日新聞出版)。うっすらと、小リュックを背にした人が、両手をひろげて空を飛んでいるイラストつき。この世からあの世への飛行のつもり。

首尾よく飛んでくれればいいが、残る 三ヵ月がこともなく終了するとどうなるか。生きていないはずの人が生きている。 そんなときは三年区切りで延長してもか まわない。国の憲法とちがい、こちらはわりと簡単に変更がきく。

なお仕事場は後半部の始まりから少しも変わっていない。机、椅子、書棚、ファイル、安楽椅子、ラジオとCD……。すべてが少しずつふえていく。身のまわり の古物を捨ててはいけない。もし仮に整理にとりかかり、順に捨てていくと、ものの順序として一番の古物、当の自分を捨てるはめになるからだ。

いけうち おさむ

1940年兵庫県姫路市生まれ。ドイツ文学者・エッセイスト。主な著書に『ゲーテさんこんばんは』(桑原武夫学芸賞)、『海山のあいだ』(講談社エッセイ賞)、『二列目の人生』、『亡き人へのレクイエム』、『恩地孝四郎』(読売文学賞)など。編注に森鴎外『椋鳥通信』(上・中・下)、訳書に『カフカ小説全集』(日本翻訳文化賞)、『ファウスト』(毎日出版文化賞)、アメリー『罪と罰の彼岸』など。大好きな山や町歩き、自然にまつわる本も、『日本の森を歩く』『森の紳士録』『ニッポン周遊記』など多数。


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