マネキン・ガールの登場

~モダン都市へと変貌する東京に誕生した華やかな女性たち~

 

 

店頭で各種商品の宣伝、販売を担当する販売員「マネキン」。

マネキンはモデルを意味するフランス語「マヌカン」の英語読みに由来するが、マヌカンでは客を招かない(招かん)、ということでさる化粧品会社により招き猫にかけて造語されたという。
モデルも兼ねるマネキン・ガールを初めて登場させたのが高島屋呉服店。マネキン・ガールは昭和初期の「ガール」全盛時代において時代の最先端をいく、一際華やかな職業だった。
マネキン・ガールはその後ファッション・モデルへと発展し昭和の時代の百貨店で、お得意様を対象に開催されたサロン風のファッション・ショーなども活躍の場となった。
一時期日本で、「ハウスマヌカン」なるブティック店員をさす言葉が流行ったが、これはヨーロッパなどの会員制婦人服ブティックで専属モデルとして活躍する「ハウスマヌカン」とは別ものだった。

〔ファッション・モデルの草分け伊東絹子は八頭身美人〕

 

戦後の明るい話題のひとつに、昭和二十八年(一九五三)、ファッション・モデルの伊東絹子がミス・ユニバースで三位になったことがある。
日本の女性が世界の美女に伍して堂々三位になった。戦争に敗れ、アメリカを始め西欧社会に、なにかにつけ劣等感を抱いていた日本人にとって、伊東絹子は、スポーツの世界における、水泳で世界記録を出した古橋広之進に匹敵する輝ける存在だった。

それまでの日本の女性に比べ、伊東 絹子は何よりもスタイルがよかった。 顔が小さく、脚が長い。そこから「八 頭身」という言葉が生まれたほど。

伊東絹子は、戦後、日本の服飾界が 専属モデルを公募したときに応募して きた、ファッション・モデルの草分け。

ファッション・ショーは、昭和二十 六年に日本デザイナー・クラブが銀座 で開いたものが最初とされる。

このときは、ダンサーやキャバレー などで働く女性がモデルを務めたが、 不評だったために、公募をして、服飾 界専属のモデルが生まれていった。

 

〔昭和のはじめの東京は ガールの全盛時代だった〕

 

しかし、この職業が登場したのは、 実はもっと早い。昭和のはじめ。当時 は、ファッション・モデルの言葉はな く、人形を意味するマネキンと呼ばれ ていた。

いつから登場したのか。   手元の『昭和史年表』(小学館、 86 年) には、昭和三年(一九二八)に「マネ キンガール初登場」とある。博覧会で、 現在のモデルのような仕事をした。

実際に昭和の始め、マネキンとして 仕事をした丸山三四子の回想記『マネ キン・ガール 詩人の妻の昭和史』(時 事通信社、 84 年)には、この昭和三年のマネキン初登場のことが書かれてい る。

三月、昭和天皇即位の御大典記念と して、上野公園で国産振興東京博覧会 が開かれた。このとき百貨店協会が特 設館を設け、そこに高島屋が和服を出 品したが、マネキン人形に和服を着せ てソファーに腰かけさせただけではな く、本物の女性を一人そこに加えた。

これが、マネキン、のちのファッショ ン・モデルのはじまりだという。本物 の女性が、服の宣伝をする。評判を呼 んで、翌年の昭和四年三月、日本の美 容師の草分け、山野千枝子(山野愛子 の母)が、アメリカで得た知識をもと に、日本マネキン倶楽部という組織を 立ち上げた。マネキンが、はじめて女 性の職業となった。

関東大震災後の東京は、それまでの 江戸の面影を残す町から、一気に、ビ ルが建ち、自動車が走るモダン都市に 変わった。女性の社会進出も盛んにな り、さまざまな「ガール」が登場する ようになった。丸山三四子は書いてい る。 「東京は、ガールの全盛時代でした。 ガソリン・ガール、円タク・ガール、 ショップ・ガール、デパート・ガール、 エンゲルス・ガール、ワンサ・ガール、 ステッキ・ガール……」

ちなみに「ガソリン・ガール」はガ ソリン・スタンドで働く女性、「エンゲルス・ガール」は社会主義運動に参 加する女性、「ワンサ・ガール」はレ ヴューのその他大勢のダンサー、「ス テッキ・ガール」は銀ブラ(銀座の散 歩)を楽しむ男性のお伴をする女性。

こうしたさまざまな「ガール」のひ とつとして「マネキン・ガール」が登 場した。

 

〔高収入で家計を支えた 最先端の職業 マネキン・ガール〕

 

丸山三四子は、昭和の詩人、丸山薫 の妻。詩人の暮しは楽ではないので、 当時、二十代はじめの妻の三四子が働 くことになった。知人の紹介で、銀 座にあった東京マネキン 倶楽部という事務所に入 り、マネキン・ガールに なった。昭和のはじめ、 事務所には五、六人のマ ネキンがいた。

主な仕事は、デパート での商品の宣伝と販売。 銀座の町をモダン・ガー ル(モガ)、モダン・ボー イ(モボ)が闊歩してい た時代である。マネキン は、「ガール」のなかで も最先端を行く新しい職 業だった驚くのは、その収入。丸山三四子は 書いている。 「その頃のマネキン・ガールといえば、 いわばファッション・モデルも兼ねた 華やかなものでした。収入の面でも、 大学卒の一流サラリーマンよりはるか に多かったのです」 「デパートの売場に立ちますと、大勢 のお客様がつめかけてまいります。マ ネキン・ガールのトップは、いまのテ レビタレント並みの忙しさで、一年先 のスケジュールまでうまっていたくら いなのです」

昭和のはじめの東京で、こんな華や かな女性がすでに生まれていた。貧乏 詩人の妻として丸山三四子は家計を支 えていた。

面白いのは、マネキンになるのは、 貧乏文士の妻や、夫が左翼運動に関 わっていて生活が苦しい新劇の女優な どが多かったこと。

左翼運動に加わり逮捕された経験が ある作家、高見順の奥さんがそうだっ た。高見順の小説『故旧忘れ得べき(』昭 和十年)には、保険の外交員をしてい るかつてのエリート学生の妻が、マネ キン・ガールをしている。夫は「俺な んかより収入が多いんだよ」と自嘲す る。

昭和の私小説作家に尾崎一雄がい る。昭和十二年に短篇『暢気眼鏡』な どで芥川賞を受賞している。

『暢気眼鏡』は尾崎一雄自身を思わせ る貧乏文士とその若い奥さんとの、貧 しくも、のんきな暮しをユーモラスに 描いている。

夫の小説が売れないので、妻が働く ことになる。知人から銀座のマネキン 倶楽部の仕事を頼まれる。
ずっと家庭にいた女性だから、人前 に出る仕事は恥しいと、はじめは断わ るが「お金欲しいもん」と家計のこと を考えて引受ける。

「日本橋のS屋に明日から向う一週 間、K正宗の宣伝ということだった」。

「S屋」は「白木屋」「、K正宗」は「菊 正宗」だろう。

七日間、なんとか無事に務め「少し ばかりの金」が入る。貧乏文士の家庭 では、思いがけない収入だったろう。

 

〔マネキン倶楽部の 乱立で生まれた 格差社会〕

 

マネキン・ガールのみんながみんな 恵まれていたわけではない。いい職業 だと分かると、マネキン倶楽部が乱立 する。当然、そこに格差が生まれる。

林芙美子の『帯廣まで』(昭和十年) の主人公はマネキンといっても一流で はない。もともと浅草のレヴューの踊 子だった。踊子をやめてマネキンにな るが、仕事といえば、東京の小さな町 の呉服屋や薬屋や雑貨屋で「一日いく ら」の仕事をする。夏には、北海道の 町々をまわる。題名の『帯廣まで』は、 そこからつけられている。

昭和のはじめ、こういうマネキンを 主人公にするところが、庶民を愛し た『放浪記』の作家、林芙美子らしい。 現代を格差社会と呼ぶが、すでに昭和 のはじめにそうだった。

 

かわもと さぶろう

評論家(映画・文学・都市)。1944年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝 日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持 つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、 『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『映画を見ればわかること』『向田邦子と昭和の東京』『それぞれの東京 昭和の町に 生きた作家たち』『銀幕の銀座 懐かしの風景とスターたち』『小説を、映画を、鉄道が走る』 (交通図書賞)『君のいない食卓』『白秋望景』(伊藤整文学賞)『いまむかし東京下町 歩き』『美女ありき―懐かしの外国映画女優讃』『映画は呼んでいる』『ギャバンの帽子、 アルヌールのコート:懐かしのヨーロッパ映画』『成瀬巳喜男 映画の面影』『映画の戦後』 『サスペンス映画ここにあり』『東京抒情』『ひとり居の記』など多数の著書がある。


新着記事

おすすめ記事

成城学園前~住人御用達の看板店

いい街には、いい本屋がある

浜美枝さんの箱根

Present

WEB限定プレゼント

Category

from Readers

Club