お出かけと外食

~関東大震災後に普及した小市民の楽しみ~

 

映画にお芝居にお買い物といったお出かけ。
デパートの大食堂やレストラン、パーラーでのお食事。
女性たちや、子供たちもこの習慣が普及していったのは昭和を迎えてからのことであった。
このうれしい習慣は長いこと昭和の楽しい行事として存在した。
磯野カツオくんも、ワカメちゃんも、ちびまる子ちゃんも、みんな、お出かけと外食に胸躍らせた。
そのデパートの食堂が様変わりを見せ、消え去ろうとしている。
だから今、私たちは古い映画の中にあの幸せな思い出のシーンを訪ねるのだ。

 

◇奥さん孝行の夫婦でのお出かけ

 

昭和30年(1955)に作られた東宝映画、丸山誠治監督の『男ありて』はプロ野球の監督とその家族を描いたホームドラマの秀作だが、このなかに監督の志村喬が、珍しく奥さんの夏川静江を誘って銀座に出る場面がある。夫婦のお出かけである。夫のほうからいえば奥さん孝行。

奥さんの希望だろう、まず日比谷の宝塚劇場で宝塚の舞台を見て、そのあと、お好み焼屋に入り、夫婦差し向かいで食事をする。

現在では夫婦のお出かけはもう普通のことだが、昭和30年代にはまだ珍しい。だから夫のほうは少し照れ臭い。それでも奥さんが「わたしもいただこうかしら」とビールを飲んで「ああ、おいしい」というと思わず笑みがこぼれる。

 

◇外食はデパートの食堂で

 

外食産業という言葉があるように、夫婦で、あるいは家族で外食を楽しむことは現在ではもう当たり前のことになっているが、こういう習慣が小市民のあいだではじまったのは、大正のおわりから昭和のはじめにかけて。西暦でいえば1920年代になってから。

それまでは家族で連れ立って、ましてや夫婦そろって外に食事に出ることは冠婚葬祭など特別な時を除いてまずなかった。男は宴会に出かけても、妻や子供は家にいるのが普通だった。

しかし、大正時代に入って、いわゆる大正デモクラシーの思想が広がってゆくと、そういう男性中心の家父長的な考えが改められ、家族で、夫婦で外に出かけるようになった。

第一次世界大戦後、日本の経済が成長し、大都会を中心にサラリーマンという中産階級が出現していったのも、外食の普及を促した。

東京のデパートでもっとも早く食堂を設けたのは日本橋にあった白木屋で明治36年(1903)。明治40年(1907)にやはり日本橋の三越が食堂を開いている。

デパートに食堂が出来たことで小市民が家族連れで休日などに銀座や日本橋にお出かけするのが容易になった。

 

◇震災後の復興景気を支えた飲食店

 

外食産業が盛んになったもうひとつのきっかけは大正12年(1923)の関東大震災。被害は大きかったが、その後の東京復興は早かった。復興景気を支えたのが、たやすく店を開ける飲食店だった。

松崎天民の『銀座』(昭和2年 現在中公文庫)によれば「関東大震災後『東京の復興は飲食物より』と思わせたほど、市内の何処へ行っても先ず第一に店を開いたのは、カフェーや小料理店や、おでん屋や寿司屋の類であった」

震災は古い権威や格式を壊した。それまでの格式の高い料亭にかわって小市民が気軽に入れる飲食店が大量に閉店していった。

トンカツ、ラーメン、カレーライスなどが登場するのは震災後。

たとえばトンカツ屋の元祖は東京の御徒町にあった洋食屋のポンチ軒。大正末期にポークカツレツをもとにトンカツを考案した。

昭和11年(1936)の小津安二郎監督作品『一人息子』では、笠智衆演じる元学校の先生が、現在の江東区砂町あたりでトンカツやを開いている。昭和12年(1937)の五所平之助監督作品『花籠の歌』は銀座のトンカツ屋が舞台で、田中絹代が店の看板娘。庶民の御馳走、トンカツが昭和に入って急速に普及しているのが分かる。

ラーメンのはじまりは諸説さるが、普及するのはやはり関東大震災後。昭和5年(1930)にベストセラーになった林芙美子の自伝的小説『放浪記』では、貧乏な彼女がさかんにラーメンを食べたいといっている。小津安二郎監督の『一人息子』には屋台のラーメン屋が出て来ている。庶民のあいだに普及している。

ライスカレーは夏目漱石の『三四郎』にも出てくるから明治時代からあったことが分かるが、普及するのはやはり震災後、昭和に入ってからだろう。

昭和6年(1931)に作られた小津安二郎監督のサイレント作品『東京の合唱』では斎藤達雄演じる高校の先生が、退職後、芝白金三光町あたりで庶民的な洋食屋を開くが、店の自慢はライスカレー。

ちなみに向田邦子の『父の詫び状』によれば「お金を払って、おもてで食べるのがカレーライス」「自分の家で田ぶるのが、ライスカレー」。絶妙な定義と言える。

 

◇食品サンプルと定価を明示したショーケース

 

手元に昭和4年(1929)に出版された時事新報社家庭部編『東京名物食べ歩き』という本がある。現在のグルメ・ガイドブックのはしりといえるだろう。

震災後、市民生活が変わった。合理化、大衆化、洋風化が進んだ。家族揃って外食する習慣が広まった。主婦も昔のように家にとじじこもっているだけでなく、銀座や日本橋、新宿などに出かけ、外食を楽しむようになった。

そこで読者から、どういう店に行ったらいいかとの情報が求められるようになり、時事新報社の家庭欄で「食べある記」の連載が始めらそれが好評だったので単行本として出版された。女性の町への進出ぶりをよくあらわしている。

1920年代は、女性の社会進出が広がった時代である。デパートの店員、タイピスト、バスの車掌、電話交換手、美容師、あるいはカフェーの女給など。

彼女たちは自分で働いて得た金で外食を楽しむようになった。昭和9年(1934)に作られた小市民の映画の代表作、島津保次郎監督『隣の八重ちゃん』(逢初夢子)が、お姉さん(岡田嘉子)や隣りに住む大学生(大日方傳)と銀座に遊びに行き、映画を見たあと、小料理屋で鳥鍋をつつく。

この本には、子供のいる家庭の主婦が対象だからだろう、デパートの食堂がたくさん紹介されている。銀座の松屋や松坂屋、日本橋の三越など、昭和に入るとどこも食堂を充実させていく。「お子様ランチ」が登場するのもこの時代。

さらに面白いものが登場した。飲食店の入り口に「食品陳列」をしたこと。ウィンドウに食品の見本を置き、定価を明示した。これは画期的な商法だった。

これまで小料理屋などいきらかかかるのか分からなかった。それが見本と定価が明示されたことで女性客が飲食店に入りやすくなった。

永井荷風は日記『断腸亭日乗』の昭和10年7月3日に、これは震災後の新風物で大阪から始まったと書いている。

お出かけ、外食。昭和のモダン都市は現在の東京とさほど変わらなくなっている。現在の原型が作られた時代といっていいだろう。

 

かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新
聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『我もまた渚を枕―東京近郊ひとり旅』『映画を見ればわかること』『銀幕風景』『現代映画、その歩むところに心せよ』『向田邦子と昭和の東京』『東京暮らし』『岩波写真文庫 川本三郎セレクション 復刻版』(全5 冊)など多数の著書がある。


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