映画が輝いていた頃

~昭和の街の大事な場所、映画館~

 

土曜日、学校をひけた子供が10円玉を握りしめて映画館へ急ぐ。
仕事帰りに恋人同士が待ち合わせてカップルで映画を見る。
晩ごはんを早終いして、家族そろって映画館に出かける。
昭和の人々なら、いずれも体験した懐かしいスケッチだろう。
映画館は、幼き日の自分自身や、恋人同士、親子や夫婦の数々の物語を作ってくれた夢の箱だ。
町から「近所の映画館」が消えた今でも、
映画館は思い出のシーンの大切な場所として昭和の人々の心のなかで生きている。

 

 

◇庶民の日常に溶け込んでいた映画という娯楽

昭和2、30年代は盛り場でもない町にも映画館があり、町の人々に日常的に親しまれていた。

成瀬巳喜男監督のホームドラマの傑作『おかあさん』(昭和27年)には、娘の香川京子が、遊びに来た叔母さんの中北千枝子に近所の映画館に連れて行ってもらい、二人でメロドラマに大泣きする微笑ましい場面がある。御大層な映画館ではない。商店街のなかにある、下駄履きでゆけるような庶民的な映画館。

あの頃は小さな町にも映画館が多かった。

同じ成瀬巳喜男監督の『鰯雲』(昭和33年)は次第に都市化してゆく小田急線沿線の厚木の農家の物語(畑の向こうをロマンスカーが走っている)だが、このなかに、農家の次男坊で町の銀行に勤めている太刀川洋一がいとこの水野久美と映画を見に行く場面がある。

レストランで食事をしたあと映画館に行く。

厚木セントラルという実際にあった映画館で、ジェームズ・スチュワートがリンドバーグを演じたビリー・ワイルダー監督の『翼よ!あれが巴里の灯だ』(57年)とスタンリー・キュークリック監督のギャング映画『現金(げんなま)に体を張れ』(56年)の豪華二本立て。こういう二番館というものが近年なくなってしまった。

鈴木英夫監督のサスペンス映画『彼奴を逃すな』(昭和31年)では、町の商店街でラジオの修理店を営む木村功が、仕事を終えたあと、奥さんの津島惠子と近所の映画館にイギリス映画、キャロル・リード監督の庶民劇『文なし横丁の人々』(55年)を見に行く。

この時代、若い夫婦が仕事のあと近所の映画館に出かけることはごく普通のことだった。まだテレビが普及していない時代、映画は昭和の小市民の最大の楽しみだった。

だからこの時代の映画には主人公たちが映画を見に行く場面が実に多い。それだけ映画が庶民の暮しの中に溶け込んでいた。

『鰯雲』が公開された昭和33年(1958)は映画人口が11億2700万人とピークに達した年。国民一人あたり一年に12、3回映画館に通った勘定になる。(現在はその十分の一)。まさに映画の黄金時代だった。映画館は昭和の町の大事な場所だった。

 

◇「活動写真」あから「映画」の時代へ

 

映画が現在のように広く親しまれるようになったのは大正時代になってから。

映画評論家の大先輩たちはだいたい十代の頃、つまり大正時代に映画の魅力にとりつかれている。たとえば明治35年東京生まれに飯島正は回想記『ぼくの明治・大正・昭和」(青蛙房、平成3年)のなかで府立一中(日比谷高校の前身)の生徒だった頃に映画が好きになり、毎日のように浅草まで映画を見に行った、と書いている。

また明治42年に神戸に生まれた淀川長治は『淀川長治自伝』(中央公論社 昭和60年)のなかで、大正7、8年頃に、神戸の映画館に通うようになり『ファントマ』や『ジゴマ』に夢中になったと書いている。大正時代は「映画の青春期」だったといえる(ちなみに当時まだ「映画」ではなく「活動写真」といっていた)。川端康成の大正時代に書かれた『伊豆の踊り子』で踊り子が旅の途中であった「私」(一高の学生)と親しくなり「(あした下田に着いたら)活動へ連れて行ってくださいましね」といっているのは「映画の青春期」ならでは。この時代、もう伊豆の下田にも映画館が出来ている。

映画がさらに普及するのは昭和に入ってからで、昭和になると「活動写真」にかわって「映画」が使われるようになる。

昭和12年(1937)に発表された永井荷風の『濹東綺譚』は荷風自身を思わせる「わたくし」が浅草の映画館に出かけるところから始まっている。
「わたくし」は映画そのものは見ないが、看板だけは見るようにしているという(荷風は「映画」ではなくあえて「活動写真」という古い言葉を使っている)。

「(略)活動写真は老弱の別なく、今の人の喜んでこれを見て、日常の話柄にしているものであるから、せめてわたくしも、人が何の話をしているのかというくらいの事は分かるようにして置きたいと思って、活動小屋の前を通りかかる時には看板の画と名題とは勉めて目を向けるように心がけている」

昭和に入って映画が小市民に広く親しまれるようになっていることが分かる。

 

◇少年も女学生も恋人たちも夢を見た映画館

 

大正12年(1923)に浅草に生まれた池波正太郎が映画が好きになり、浅草の映画館い通うようになるのは『濹東綺譚』とほぼ同じ時期。たとえば池波少年は大晦日に祖母から小遣いをもらうと、友達とまず浅草へ行き、映画館で映画を見る。それから並木の藪に行って年越しそばを食べ、それからまた別の映画館に行く。池波正太郎は映画好きで知られていたが、その下地は子供時代の浅草で作られている。

昭和2年(1927)、東京の日暮里生まれの吉村昭は回想記『昭和歳時記』(文藝春秋、平成5年)のなかで、「少年時代、私は映画に熱中し、週に三、四回は映画館に足をむけた。東京の下町では、どの町にも四つか五つの映画館があった」と書いている。昭和十年代、吉村昭の生まれ育った日暮里の町にも映画館が四つもあったという(現在はひとつもない)。

この時代、女学生も映画を見る。

北杜夫の『楡家の人びと』では楡家のひとり、藍子という東洋英和女学校に通う女子学生が当時、ひとつの頂点に達した数々のフランス映画をよく見ている。

ジャン・ルノワールの『どん底』、ジュリアン・デュヴィヴィエの『我等の仲間』『舞踏家の手帖』『望郷』レオニイド・モギイの『格子なき牢獄』など。

「その大部分を一回ならず藍子は観賞し、ルイ・ジュヴェの男爵に、ジャン・ギャバンの親分バリーに、いたく変化し易い時期にある彼女の心は、宝塚少女歌劇を見るよりも更にこそばゆくゆさぶられた」。

日中戦争の頃、昭和戦前の最後の映画の輝きといえよう。

戦争が終り、戦後再び映画は盛んになる。

市川崑監督の『恋人』(昭和26年)は明日結婚式を挙げることになっている久慈あさみ(小田急線沿線の成城学園駅あたりに住んでいる)が、幼なじみの池部良を誘い、独身最後の夜を一緒に過ごす物語。

二人は銀座に出て映画を見る。

メロドラマの名作、マービン・ルロイ監督、ロバート・テーラー、ヴィヴィアン・リー主演の『哀愁』(40年)。二人は本当は愛し愛し合っているが、とうとう最後までその気持ちを伝え合えないで別れてゆく。

それでも映画を見ている時だけは恋人どうし。映画をカップルで見る。これだけは現在も続いているのではないか。

かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『我もまた渚を枕―東京近郊ひとり旅』『映画を見ればわかること』『銀幕風景』『現代映画、その歩むところに心せよ』『向田邦子と昭和の東京』『東京暮らし』『岩波写真文庫 川本三郎セレクション 復刻版』(全5 冊)など多数の著書がある。


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