川喜多長政 &かしこ映画の青春国際的映画人のたたずまい

戦前には『自由を我等に』『制服の処女』『会議は踊る』『望郷』など、戦後になって『天井棧敷の人々』『第三の男』『禁じられた遊び』『黒いオルフェ』など後に、映画史上不朽の名作といわれる数々のヨーロッパ映画を輸入し、日本人に紹介した川喜多長政、かしこ夫妻。

夫妻の存在があればこそ日本人はヨーロッパ映画という文化を知ることができた。また、『新しき土』で日本初の国際合作映画を制作し、『羅生門』のヴェネチア映画祭出品に協力し、以後も『七人の侍』『雨月物語』など数多くの日本映画を海外に紹介し、日本映画の普及に努めた立役者でもある。

世界の映画人にとって日本映画を知る窓口であった夫妻は、世界中の国際映画祭に招かれ、審査員も数多く務めることになった。

かしこ夫人の著書に『映画が世界を結ぶ』があるが、夫妻は映画を愛し、生涯映画とともに生きた国際的映画人であった。

企画協力&写真提供=川喜多記念映画文化財団
企画協力=鎌倉市川喜多映画記念館
参考図書=『映画が世界を結ぶ』(川喜多かしこ、佐藤忠男共著)

文=佐藤忠男

一九五〇年代の日本映画の時代 世界の注目を集めた 川喜多長政&かしこ夫妻

 

戦後、日本がまだ貧しく、外国旅行など外貨持出しの厳しい制限があったりして困難だった頃、日本人でこんなに絶えず飛行機で世界を飛びまわっている女性は他にはいないだろうと言われて羨望の眼で見られていたのが川喜多かしこ夫人である。映画の輸入会社の東和映画の副社長だったから、当然その仕事のためもあったが、世界各地で盛んに行なわれるようになった国際映画祭から賞の審査員を頼まれることが多く、それで飛びまわっていることが多かった。

一九五一年のヴェネツィア国際映画祭で黒澤明の『羅生門』がグランプリを受賞したのをきっかけに、それまで国際的には殆んど知られていなかった日本映画がとつぜん世界でもてはやされるようになり、一九五〇年代は日本映画の時代となったが、するとどこの映画祭も日本人を審査員に加えたくなる。 そうなると戦前から日本の映画業者としてヨーロッパでも作品選択の眼の高さを知られていた川喜多長政、かしこ夫妻に注目が集るし、長政氏が商売に専念しなければならないとしたら当然かしこ夫人が選ばれることになる。なにしろ夫人は、英、仏、独語が出来るうえに、ふくよかな、はじらいがちな美人で、外国人が日本女性に対して持つ好意的なイメージの典型のようなしとやかな人であった。その日本的というところをご本人自身がよく自覚していて、夫人はつねに紫色の着物姿だった。

余談だが、同じ映画祭に私と妻がご一緒に参加することになると、夫人は私の妻に「着物をお持ちなさいね」とおっしゃるのが常だった。着物を持参するということになると、帯まで一式、私がトランクで持って運ばなければならないのでたいへんなのだが、妻はもう大喜びだった。そんな私たちに、夫人は長政氏とともによく、外国人とのつきあいかたを教えて下さったものだ。まず、ぜったいに女性にものを持たせてはいけない、ということから始まって。

1935 年、パテ・ナタン撮影所で『地の果てを行く』を撮影中のジャン・ギャバン(左)とジュリア ン・デュヴィヴィエ監督(中)を訪ねた長政氏。ギャバンを発見し、その才能を引き出したのは デュヴィヴィエ監督で、このコンビは『望郷』で詩情あるギャング映画を打ち出した。

1953 年「第一回フランス映画際」で来日した折、ジェラール・フィリップ夫妻を歌舞伎の七代 目尾上梅幸に紹介するかしこ夫人。フィリップは映画祭の期間『蟹工船』『女の園』など十数 本の日本映画を見て、帰国後、夫人とともに「日本映画の啓示」という主題で論文を新聞に発 表し、日本映画が初めてヨーロッパの映画知識人の間に強い興味を引き起こすことになった。 フィリップの主演作に『パルムの僧院』『赤と黒』『モンパルナスの灯』などがある。

1937 年、日独合作映画『新しき土』(アーノルド・ファンク、伊丹万作 監督)を携えて渡欧後、アメリカ経由で帰国のためシェルブールから クイーン・メアリー号に乗船の一行。左から長政氏、主演の原節子、 原節子の義兄にあたる熊谷久虎監督、かしこ夫

1957 年、ロンドンで映画『ギデオン』を撮影中のジョン・フォード監督(右)を撮影所に訪ねる。フォード監督の隣は黒澤明監督。

1953 年のヴェネチア映画祭で京マチ子をエスコートする長政 氏。51 年に『羅生門』がグランプリを受賞したことで、京マチ 子の名声もすでに高まっていた。

1956 年のヴェネチア映画祭にて三益愛子、ジーナ・ロロブリ ジーダと。この年ロロブリジーダは『ノートルダムのせむし男』 『空中ぶらんこ』に出演している。

1957 年のカンヌ映画祭にて川喜多夫妻、ジャン・コクトー、 今井正監督作品でキネマ旬報、ブルーリボン賞、毎日映画 コンクールなど数々の賞に輝いた映画『米』に出演の女優 中村雅子。

近代女性のモデルになった 川喜多夫人

 

私が映画を夢中になって見るようになったのは、敗戦直後、まだ十代の予科練帰りの少年だった頃だ。戦争に負けたおかげで見ることができるようになった外国映画をあびるように見て、戦争中の自分がいかに世界を知ることなく、独善的な軍国主義をうのみにしていたかを反省し、映画に志を立てた。当時私を夢中にした映画の中でとくに芸術的にすぐれていると思ったのは、東和商事という会社が戦前に輸入公開して、フィルム不足の敗戦後にも盛んにリバイバル上映していたトーキー初期のヨーロッパ映画だった。フランス映画の『巴里祭』や『どん底』、オーストリー映画の『未完成交響楽』や『たそがれの維納』。世界はこんなにも美しく魅力にあふれているのかと驚いたのである。

この東和商事の社長が川喜多長政であり、その東和商事に英文タイプのできる若い秘書として入社して社長に見初められて結婚したのが川喜多かしこ夫人である。結婚して間もなく、一緒にベルリンに映画の買付けに行ったが、そのとき長政氏が、結婚の記念に一本は君の選んだ作品を買おうと言った。そこでまだ若いかしこ夫人が選んだのが『制服の処女』だった。これは長政氏が商売にはならないだろうと思った作品だが、日本で公開すると大ヒットで名作と評価された。以来、かしこ夫人の名声は高く、一時代を築いた東和配給の名作はみんな夫人の選んだものだというふうに噂された。事実そうなのかもしれないが、その点では長政氏はあえて沈黙することで夫人の名声を高めるよう心がけたという面があると私は思う。女性の実業家は珍しかったし、しかも文化的事業でリーダー的な女性となると日本社会の近代化のシンボル的な存在でもあり得たからである。一九三八年の松竹大船映画『半処女』では川喜多夫妻をモデルにしたと思われる人物を佐分利信と三宅邦子が演じている。そこでは三宅邦子の外国映画輸入会社の社長秘書が、たいへん聡明で理知的な、つまりは近代的な女性の模範として描かれている。川喜多夫人は近代女性のモデルになったのだ。

川喜多夫妻は高級なヨーロッパ映画の輸入と配給の仕事で名声を得たのだが、本当の夢は日本映画の輸出で、夫人が東和に入社して長政氏から最初に与えられた仕事も溝口健二監督の新作の輸出のためにそのストーリーを英訳することだったそうである。しかし当時は日本映画の輸出は難しく、それならばと長政氏がやったのは、よく知っているドイツ映画の監督アーノルド・ファンク氏を日本に招いて日独合作映画の『新しき土』(一九三七)をプロデュースすることだった。この作品は新人の原節子を一躍大スターにしたことで有名になったものだ。

1957 年、ロンドン・フィルムの全スタジオを借り切って、直接関係者以外、ジャーナリストも カメラマンも一切立入禁止という状況のなか、特別な好意により『ニューヨークの王様』を撮 影中のチャーリー・チャップリンを訪ねた川喜多夫妻。

1956年のヴェネチア映 画祭で、左から三益愛 子、かしこ夫人、牛原虚 彦監督、審査員を務め るルキノ・ヴィスコンティ 監督、マリア・カラス。

1956 年、フランスのサン・モリス撮影所にジャン・ルノワール監 督『恋多き女』を撮影中のイングリッド・バーグマンを訪ねて。 左は娘の川喜多和子さん。

1964 年、イタリア映画際 で来日のクラウディア・カ ルディナーレと一緒に。こ の来日時にはテレビのス ター千一夜にも出演してい る。『刑事』『若者のすべて』 『山猫』『ブーベの恋人』 などでおなじみである。

日本映画の普及に 心血を注いだ 映画文化運動の旗手

 

私が、いわば憧れの川喜多夫妻の知己を得るようになったのは、私が映画批評家になった一九五〇年代末からである。以来、ずいぶんお世話になった。お食事に招かれたこともある。と言うと、ご夫妻は映画業者、私は業者でも批判すべきはする批評家なのに、さては癒着関係か、と疑われるかもしれないが、そうではない。じつは、ご夫妻、とくにかしこ夫人には、映画業者という以外に大きな仕事がいくつかあった。

一九五〇年代に日本映画が突如として世界的に高く評価されるようになったとき、世界の映画研究者や国際映画祭関係者、フィルム・アーカイブ(映画貯蔵所)などが日本の映画界と連絡をとろうとしても、その仲介の出来る人は川喜多かしこ夫人しかいなかったのである。まず、知られざる日本映画の名作を百本も集めてパリやロンドンで映画祭をやりたい、という相談が彼女のところに来る。日本にはそんな作品を集めている施設なんてない。そこで彼女がやったことがすごい。日本映画各社を説得して倉庫の中から旧い作品を集め、字幕をつけて外国の上映会にまわす。さらにせっかく集めた日本映画の名作を保存し管理する施設を日本政府に作らせる文化運動を起す。こうして実現したのが東京国立近代美術館フィルムセンターなのである。

夫人が単なる映画輸入業者の枠を超えたボランティアの文化活動家として行なった最大の仕事はこれで、他にも、一九七〇年代に日本のアート系映画を支えたATG(日本アートシアター・ギルド)という会社を作った影の主役は彼女だったし、妹分のような存在だった故高野悦子さんと組んで岩波ホールの良心的な映画上映活動をはじめたのもかしこ夫人なのである。

私は川喜多かしこさんから、商売とは違うこういう文化活動や、そのための拠点づくりの仕事でよく協力を呼びかけられ、手伝い、PR活動などを喜んでやった。また彼女は外国人の日本映画研究者の世話をやくことに熱心で、そのためにご自分の自由になる試写室を積極的に使わせた。特に重要な客のときは招待の席を持ったが、そんなとき私は、外国人の話相手になれる日本映画史の専門家としてよく招待された。そうした商売を離れた文化活動の面で私たちは信頼しあえる同志だった。もちろん、あの、つねに紫色の和服の美しい夫人から声がかかれば、なにはさておき私がかけつけたのは言うまでもないが。

1963 年に鎌倉の川喜多邸を訪れたアラン・ドロンとかしこ、和子母娘。ジェラール・フィ リップが50 年代のフランスの美の代表者、それも知性の美の象徴だとしたら、アラン・ド ロンは60 年代の野心の美の代表者といえるだろう。かしこ夫人は「小憎らしいほど頭の 切れる男」「悪役をさせたら天下一品」とドロンを評している。

1965 年のカンヌ映画祭には小林正樹監督『怪談』が 出品され、その中の一編「黒髪」に出演した新珠三千 代もカンヌ入りした。写真左端が長政氏。

1977年のカンヌ映画祭で山口百恵とかしこ夫人。当時 トップ・アイドルだった山口百恵は女優としても『伊豆の 踊子』『潮騒』『絶唱』『春琴抄』『霧の旗』『古都』な どに主演している。

国際人であることの 真の意味を教えてくれた 川喜多夫妻

 

川喜多長政氏は、そうした美しく先端的な文化活動家である夫人の経済的なスポンサーというふうに見られていた傾向があるが、いちど外国の映画祭で二人きりになる機会があり、そのときしみじみと戦争中の中国での仕事の経験をお聞きして考えが変った。

川喜多長政の父親は日本陸軍の将校で、清朝中国の士官学校で教官をしていた。そしてなぜか日本の憲兵に暗殺されている。中国軍の強化に熱心でありすぎたらしい。日中提携で西洋に対抗するという大アジア主義者だったらしい。その父の志を継ぎたいと長政氏は北京大学に留学している。のちに日中戦争で中国映画の撮影所が集中している上海を占領した日本軍は長政氏に中国映画界の管理を依頼した。長政氏はこれを引き受けた。すでに日本が植民地化していた満州では満映という国策会社が盛んに日本のためのプロパガンダ映画を作っていた。しかし中国通の長政氏には上海でそんなことをしたら、参加した中国映画人がテロでやられると分っていた。だから抗日的なテーマ以外なら何を作ってもいいという方針を貫いた。だから日本軍の占領下の上海で作られた中国映画は毒にも薬にもならない娯楽作品ばかりと言われたが、しかしそれで戦後、上海の中国映画人は漢奸(中国への裏切者)として裁かれずにすんだ。そのことを自分は生涯の誇りにしている。でも、そんなことは誰も賞めてはくれないことだ……と。

私はこの打ち明け話に感動した。のちにマレーシアの華僑の学者から、少年時代に日本占領下のマレーで見ていちばん楽しかった上海の映画で『千紫万紅』という作品があったと聞き、北京の国家電影資料館を訪ねてこの作品を見せてもらった。たしかにそれは真実からは遙かに遠いハリウッド・ミュージカル調の娯楽作品だったが、娯楽としては上出来で、戦争中でも一刻、中国人や東南アジアの華僑たちは楽しい夢にひたることができたに違いないと納得した。

敗戦後、上海から引き揚げ船に乗った長政氏が、一緒に帰れるはずだった山口淑子さんが、中国を裏切った中国人李香蘭として裁判にかけられることになったと知ると、ひとり敢然と引き揚げ船を下りて、彼女が日本人だと証明されて釈放されるまで上海に残った。なにかもう、ほんとうに男らしい。

私はお二人から、国際人であることを学んだ。それは決して華やかに浮れさわぐことではない。どの国の人たちとも偏見なく誠実につきあい、できるだけ親切に気くばりをするということに尽きる。

1974 年、パリでの「現代日本映画シーズン」上映会にて、右より京マチ子、三船敏郎、かしこ夫人、アラ ン・ドロン、ナタリー・ドロン。

1980年、カンヌ映画祭での川喜多夫 妻、娘和子氏、映画研究家オーディ・ ボック女史、フランシス・フォード・コッポラ監督。

1980年に映画『影武者』を携えてカンヌ入りした黒澤明監督、主演の仲代達矢と川喜多夫妻、『影武者』は見事グランプリを獲得した。

1983 年、カンヌ映画祭で『戦場のメリー クリスマス』の坂本龍一とかしこ夫人。 この年グランプリに輝いたのは今村昌平 監督『楢山節考』だった。

東和創立45 周年のお祝いにかけつけたカト リーヌ・ドヌーヴと川喜多夫妻。東和が公開 したドヌーヴ出演映画には『シェルブールの雨 傘』『ロシュフォールの恋人たち』『昼顔』などがある。

1991年、『暗殺のオペラ』『ラストタンゴ・イン・ パリ』『1900 年』『ラストエンペラー』などで知ら れるベルナルド・ベルトルッチ監督と淀川長治氏 と一緒に。

1989 年、第一回高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した『天井棧敷の人々』『悪魔が夜来る』『嘆きのテレーズ』のマルセル・カルネ監督と明治記念館にて。

1979年、岩波ホールにて来日中のフランソワ・トリュフォー監督と、岩波ホール総支配人の高野悦子氏と。かしこ夫人は高野悦子氏とともに、「埋もれた名作を世に出す組織」として 74年にエキプ・ド・シネマを設立した。

社名を東和映画と改称した1951 年、川喜多夫妻の戦後はこの年に始まったといえる。長政氏は カンヌ国際映画祭に初めて出席し、黒澤明監督『羅生門』がヴェネチア映画祭でグランプリを獲 得した。52 年には数々の映画賞に輝いたマルセル・カルネ監督『天井棧敷の人々』(ジャン=ル イ・バロー、アルレッティ主演)はじめ世界の映画史に名を刻む10 本の作品を公開し、実りの年と なった。

1952 年に公開されたキャロル・リード監督、ジョゼフ・コットン、アリダ・ヴァリ、オーソン・ウェルズ 出演のイギリス映画『第三の男』。アントン・カラスのチター演奏によるテーマ曲は、ラスト・シーン とともに人々の記憶に残る。脚本を手がけたのはグレアム・グリーン。49 年のカンヌ映画祭でグラ ンプリに輝いた。

1932 年に初めて長政氏のヨーロッパ旅行に同行 したかしこ夫人は、ドイツ映画『制服の処女』を見 て夢中になり、長政氏からのプレゼントとして買い 付けてもらう。33 年に公開されると客は入らない だろうとの予想を裏切り、日本で大ヒットとなりこの 年のベストワンにも輝き、かしこ夫人の映画を見る 目の確かさが証明されることになった。原題にある 「メーチェン」というドイツ語は少女とも乙女とも訳 せるが、ずばり「処女」と言い切ったのは当時宣伝 部の嘱託をしていた故筈見恒夫氏のセンス。

1938 年、田坂具隆監督『五人の斥候兵』をヴェネ チア映画祭に出品するため、戦前最後となるヨー ロッパ旅行に出かけた川喜多夫妻はベルリンオリ ンピックを描いたレニ・リーフェンシュタール監督の 『民族の祭典』と出合い、ぜひとも日本人に見せ たいと買い付け、40 年に公開した。『民族の祭典』 はヴェネチアでグランプリを、『五人の斥候兵』はイ タリア民衆文化大臣賞を受賞。

1920 年代から30 年代初め、すなわちサイレントの 末期、世界のマーケットを占めていたのは圧倒的 にドイツ映画だった。1934 年公開の『会議は踊る』 はドイツ映画最後の花ともいえる作品。ヒットラー 政権はドイツの芸術の花を枯らしてしまった。

1930 年代はフランス映画豊作の年である。東和 は1932 年にジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『商 船テナシチー』と『にんじん』を公開し、キネマ旬報 の1 位と3 位に輝いた。ちなみに2 位は『会議は踊 る』だった。

シャルル・ボワイエ、ダニエル・ダリュー主演で皇族の情死事件を 扱った『うたかたの恋』が公開されたのは1946 年。この年、長政氏 は上海から李香蘭こと山口淑子氏を救い出して帰国した。

1953 年に東和は12 作品を公開したがルネ・クレマン監督『禁じら れた遊び』もその一つ。ナルシソ・イエペスのギターで奏でられる テーマ曲は、ギター演奏家なら一度は爪弾いたはずだ。52 年のヴェ ネチア映画祭でグランプリを受賞し、キネマ旬報ベストワンに輝いた。

キネマ旬報1位に輝いた1936年公開の ジャック・フェデー監督作品『ミモザ館』。 この年に東和が公開した作品にはヒッチ コックの『三十九夜』、J・デュヴィヴィエ の『白き処女地』『地の果てを行く』など がある。

ジェラール・フィリップがファン ファン・ラ・チューリップを演じた 1953 年の公開作『花咲ける騎 士道』で、日本でも人気に火が つき、役名のファンファンの愛称 で親しまれた。同年来日時にお けるファンの熱狂ぶりは並大抵 のものではなかった。『夜の騎 士道』で共演したブリジット・バ ルドーは、その折の印象を「彼 は生きながらにして、すでに伝 説の人だった」と述べている。 59 年に死去。

レイモン・ラディゲの処女作をク ロード・オータン=ララ監督が映 画化した『肉体の悪魔』の公開 も1952 年。ツメをかむ青年ク ロードを演じたジェラール・フィ リップの人気は世界的なものに なった。翌53 年に「第一回フラ ンス映画際」で来日し、川喜多 夫妻の生涯の友となった。50 年 代のフランスの美の象徴である。 ミシュリーヌ・プレールが共演。

「チャップリンの最大傑作であるだけでなく、映画が全世界に対して、全人類に対 して発言した歴史的な作品」とかしこ夫人が言う『チャップリンの独裁者』が公開 されたのは1960 年。

1954 年に東和が公開した全11 本中、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督『恐怖の報酬』はじ め9 本がフランス映画である。かしこ夫人は主演のイヴ・モンタンの魅力を、ロダンの彫刻のよう にたくましく、太くて長い首だと言っている。53 年のカンヌ映画祭でグランプリと男優賞(シャル ル・ヴァネル)、ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞。54 年、長政氏が日本代表として出席し たヴェネチア映画祭には黒澤明監督『七人の侍』と溝口健二監督『雨月物語』が出品され2 作 同時銀獅子賞受賞の快挙を成し、カンヌでは衣笠貞之助監督『地獄門』がグランプリに輝いた。

フランソワ・トリュフォーの第一 回監督作で、1959 年のカン ヌ映画祭で監督賞を受賞した 『大人は判ってくれない』の 日本公開は60 年。カンヌで グランプリを受賞した『黒いオ ルフェ』も同年公開された。

1939 年公開のJ・デュヴィヴィエ監督、ジャン・ギャ バン主演の『望郷』。ギャバン演じるペペ・ル・モコ が客船の甲板の恋仲のギャビーに向かって「ギャ ビー」と叫ぶが、汽笛にむなしくかき消されてしまう ラスト・シーンはあまりにも有名。ベストテン第1 位。

1955 年に公開されたアンリ =ジョルジュ・クルーゾー監督 『悪魔のような女』。谷崎潤 一郎は公開時に見て、主演 のシモーヌ・シニョレの悪女 ぶりに感心したという。シモー ヌは私生活ではイヴ・モンタ ン夫人で、59 年にジャック・ クレイトン監督『年上の女』で カンヌ映画祭で主演女優賞 を獲得。

かわきた かしこ
明治41 年生まれ、横浜に育つ。横浜フェリス女学院研究科卒業後、東和商事にタイピスト兼社長秘書として入社、同年、同社の創立一周年記念日に社長の川喜多長政と結婚。昭和7 年に初めて長政の映画買い付けのヨーロッパ旅行に同行して以来毎年のように夫婦揃ってヨーロッパに出かけ名作の選択に当たった。東和映画では副社長を務めた。昭和35 年にフランスから150 本程度の作品を交換しての日仏の古典映画回顧展を行いたいとの申し入れがあったが、当時の日本のライブラリー機関には十数本程度の長編映画しか収められておらず、「フィルム・ライブラリー助成協議会」を組織し、百本余りの作品を集めることに成功。以後、日本映画の名作の収集・保存を私財を投げ打って始め、日本映画の海外普及に尽力した。それは昭和56 年、長政の死後、故人の遺産もつぎ込み財団川喜多記念映画文化財団へと発展した。ベルリン、カンヌ、ヴェネチアなど国際映画祭の審査員を務めること26 回、〝マダム・カワキタ〟の名は世界中の映画人に親しまれている。昭和39 年文部省芸術選奨、昭和49 年紫綬褒章、昭和55 年勲三等瑞宝章、昭和56 年菊池寛賞、イタリアからカバリエレ勲章、フランスからオフィシエとコマンドールの文芸勲章と国家功労賞を受ける。平成5 年7月27日死去。正五位に叙せられた。

かわきた ながまさ
明治36 年東京に生れる。大正10 年中国に渡り北京大学に学び、その後ドイツに留学。帰国直後の昭和3 年、東洋と西洋の和合を願い「東和商事」を設立し、ヨーロッパ映画を日本に紹介する仕事を始めた。翌年、同社の社員だった竹内かしこと結婚、夫婦で力を合わせて『自由を我等に』『巴里祭』『会議は踊る』『望郷』『民族の祭典』など、数々の映画史上不朽の名作を輸入・配給した。昭和12 年には日本初の国際合作映画となるドイツとの合作映画『新しき土』を制作。昭和26 年、社名を「東和映画」と変え外国映画の輸入を再開。同年、ヴェネチア映画祭に黒澤明監督の『羅生門』出品に協力、その後も日本映画の国際映画祭への出品に尽力し、日本映画を世界に知らしめた。東和映画時代には『天井棧敷の人々』『第三の男』『禁じられた遊び』『チャップリンの独裁者』などを輸入した。昭和50 年、社名を東宝東和株式会社と改称。夫人とともに海外の映画祭に出席し、国際的映画人として知られた。昭和39 年藍綬褒章、昭和48 年勲二等瑞宝章、フランスからシュバリエ・ド・ラ・レジオン・ドヌール勲章、イタリアからコメンダトーレ勲章を受ける。昭和56年5月24日、78 歳で死去。正四位に叙せられた。

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鎌倉市川喜多映画記念館

川喜多長政、かしこ夫妻の旧宅跡に、鎌倉市における映画文化の発展を期して2010 年に開館した。記念館では映画資料の展示、映画上映をはじめ、映画人を招いての講演会なども開催されている。川喜多夫妻の紹介も常設展示されているので、鎌倉散策の折にはお訪ねすることをおすすめする。記念館を訪れるには、JR鎌倉駅、江ノ電鎌倉駅から小町通りを八幡宮に向かい徒歩8 分程度ということで、JR横須賀線という手もあるが、小田急江ノ島線で藤沢まで行き、そこから江ノ電に乗り換えると江ノ電の始発駅から執着駅までをフルに楽しむことができ、鎌倉の小さな旅の風情を味わうことができる。

〔住〕鎌倉市雪ノ下2-2-12
〔問〕0467-23-2500
〔開館時間〕9:00 ~ 17:00(入館は16:30まで)
〔休館〕毎月曜(祝日の場合は開館、翌平日休館)、年末年始、展示替期間、特別整理期間など
〔観覧料〕通常展200 円、特別展300 円
〔映画鑑賞券〕通常上映800 円、特別上映は作品毎にご案内

さとう ただお

映画評論家、教育評論家。1930 年新潟市生まれ。新潟在住のまま「映画評論」の読者投稿欄に映画評の投稿を続け、56 年刊行の初の著書『日本の映画』でキネマ旬報賞を受賞。その後、上京して「映画評論」「思想の科学」の編集に携わりながら評論活動を行う。73 年からは妻の久子と共同で個人雑誌「映画史研究」を編集・発行。96年から2011 年まで日本映画学校校長を務め、現在は日本映画大学学長。96 年に紫綬褒章受章をはじめ、勲四等旭日小綬章、芸術選奨文部大臣賞、韓国王冠文化勲章、レジオンドヌール勲章シュヴァリエ、ベトナム友情のメダルなどを受け、第7 回川喜多賞を妻久子とともに受賞。多くの著作があるが、最近の著書には『伝説の名優たち その演技の力』『教育者・今村昌平』『忠臣蔵―意地の系譜』『独学でよかった』『喜劇映画論 チャップリンから北野武まで』『映画で日本を考える』などがある。


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