世紀のスタ ーたちを撮った日本人

本年(2016年)8月30日に生誕100年を迎える写真家・早田雄二。
本誌では今までにも、日本映画の女優たちのポートレイトや、映画界、文壇、スポーツ界などのスターと呼ばれる人々のスナップ写真などを通して早田雄二の作品を紹介してきた。
また、2014年秋号の原 節子に始まり今号の池内淳子にいたるまで表紙を飾るのも早田雄二の写真による女優たちである。だが、まだまだ紹介しきれていない写真がある。
早田雄二は、外国映画スターの写真も数多く撮っていたのである。
多くのスターたちがすでに鬼籍に入っているが、彼らは早田雄二の写真のなかで永遠に生き続けている。
生誕100年を迎える今、改めてそれらの写真を一枚一枚見直しながら早田雄二の写真家としての質、写真のテーマを探ってみたい。

文=萩原朔美
(Vol.28 より)

『ガス燈』『追想』で主演女優賞、 『オリエント急行殺人事件』で助演 女優賞と3 度オスカーを獲得したイ ングリッド・バーグマン。日本で最も なじみの作品はハンフリー・ボガー トと共演した『カサブランカ』だろう。 『誰が為に鐘は鳴る』でゲーリー・ クーパーと、『汚名』でケーリー・ グラントと、『白い恐怖』でグレゴ リー・ペックと共演。

1955年2月号の「映画の友」に掲載された、ローマ 国立オペラ座でのバレエ鑑賞に訪れた『ローマの休日』 でアカデミー賞主演女優賞に輝いたオードリー・ヘプバー ンとメル・ファーラー。オードリーとメルはブロードウェイの 舞台『オンディーヌ』(オードリーはトニー賞主演舞台女優 賞を受賞)で共演し結婚した(その後離婚)。映画『戦争 と平和』でも共演している。『麗しのサブリナ』の監督ビ リー・ワイルダーは、痩身で優雅で大きな瞳と長い脚の オードリーを「この女性が大きな胸を過去の遺物としてし まうだろう」とコメントしている。

ハリウッド黄金時代 を代表する大女優リズことエリザベス・テイラー。『バター フィールド8』『バージニア・ウルフなんかこわくない』で2 度のアカデミー主演女優賞を受賞。『クレオパトラ』で共 演したリチャード・バートンとは11本の共演作があり、2度 結婚したことでも知られる。ちなみにリズは生涯8回結婚 した。『若草物語』『花嫁の父』『陽のあたる場所』『ジャ イアンツ』など多くの作品で日本人を魅了した

スターという言葉を 戴冠させたくなる 早田雄二が描くポートレイト
 

スターという言葉が、手の届かな い、夢の住人というイメージで語られ た時代はいつ頃までだろうか。 現在スクリーンで活躍している人た ちは、役者とかアイドルと呼ばれてス ターという感じではない。近所に住ん でいる人気者といった親近感を抱かせ る存在だ。

これは、テレビとその後のビデオの 出現による影響が大きいだろう。映像 が暗闇から解放され、明るい室内で観ることが可能になったこと で、スターの輝きが消えて しまったのだ。

「映画館の暗闇というやつ は、ときには数億光年の遠 さを感じさせる」

と書いたのは、青森の映画館で一時期 生活していた寺山修司だ。それはス ターが本当に夜空に輝く星のようなも のだったからこそ感じられた「遠さ」 だろう。

写真家、早田雄二のカメラが描き出 した映画俳優のポートレイトを見てい ると、そこにはまぎれもなくスターと いう言葉を戴冠させたくなる表情がる。どの顔にも「遠さ」とオーラを感 じてしまうのだ。映画のなかだけに生 きて、映画のなかだけで死ぬという宿 命。昼間の太陽の下では生きていられ ないスターという幻影。そんなイメー ジが夜空の天の川のように湧いてくる のだ。

「ジーン・ハーロウの映画、観たこと ある? ジーン・ハーロウはとてもい い女でしたよ。百万人に愛されて、映 画の中でも何回も死んだ、そう、何度 も死んだ。おまけに映画の外までも 酔っ払って、自動車事故で死にまし た。死に方は全部まちまちで、それぞ れべつの名前がついていた――すてき ね、何度も死ねる人は、何度も生きら れるんですものね」

これは、寺山修司の戯曲『毛皮のマ リー』のなかのセリフだ。

そうなのだ。映画スターという存在 は、何度も死んで何度も生き返ること が出来るからスターでいられるのだ。

その意味では初めから生きていない ような、夢の中にだけ現れる憧れの人 のような存在に近い。映画を上映する ことは想い出を再生しているようなも のなのである。

最近、古い名画を安価なDVDで販 売しはじめている。自分が青春時代に 観た作品と再会できるから人気なのか もしれない。実はわたしもうれしく なって買っているものの一人だ。

そして、こっそり一人で観ている。泣けてくるのだ。なぜだか涙で画面が 滲んでしまう。やはり淡い思い出と 再会しているような、不思議な気分に なってくるからなのである。

「ミケランジェロの彫刻のように美しい」と称された肉体美と 精悍なマスクでアカデミー賞主演男優賞を受賞した『ベン・ ハー』をはじめ『十戒』『エル・シド』などの歴史劇、『エア ポート75』『大地震』などパニック・アクションのタフガイな主 人公、更に『地上最大のショウ』『大いなる西部』『猿の惑星』 『ミッドウェイ』などで知られるチャールトン・ヘストン。

1954年にプロ野球選手ジョー・ディマ ジオ(右)と結婚したマリリン・モンロー は、同年2月1日新婚旅行を兼ねて来 日し、3週間日本に滞在した。『ナイアガ ラ』で魅せたモンロー・ウォークと呼ば れる独特な歩き方で、20世紀を代表す る〝セックス・シンボル〟となる。代表作 に『紳士は金髪がお好き』『帰らざる河』 『ショウほど素敵な商売はない』『七年 目の浮気』『お熱いのがお好き』など。

ファンの夢を継続させる 貴重な記念物である 早田雄二の仕事

早田雄二のポートレイトも、懐かし い映画を観ているのと同じような気持 にさせてくれる。一枚一枚じっくり写真と対面していると、スターの遺影の ように思えてくるから不思議なのだ。

考えてみれば、写真という写真は全て遺影である。過去に確かに存在して いたことを証明するためのものだ。

わたしたちは、携帯で自撮りした り、カメラで子供や友人を撮影したり する。それは無意識に遺影を残そうと しているのである。

ロラン・バルトが写真についての覚 書『明るい部屋』(みすず書房)のなかで、紙焼きされた写真は退色しやがて 消滅してしまうものだとしたうえで

「古代社会は、生の代理物である思い 出が永遠に残るように、また少なくと も「死」を記念する事物そのものだけ は滅びないように工夫した。それが 「記念建造物」であった。しかし近代 社会は、「記念建造物」を廃止して、死 すべきものである「写真」を、(かつて あったもの)の普通の、いわば自然な 証人としたのである」

と書いている。

現代ではピラミッドはもう作れない から、代わりに写真を残そうとしているのである。

数年前に亡くなった母親の遺品を整 理していたら、机の一番下の引き出し に映画雑誌から切り取ったのだろうか チャップリンとキートンの写真が何枚もあった。なにか文章の参考にするつ もりだったのだろうか。あるいはファンだったのか。

そういえば、子供のわたしに観ることを進めた映画はディズニーのアニメーションかチャップリンだけだった。西部劇を観るというと嫌な顔をした。
 
キートンは好きだと聞いたことがあった。たしか父親の風貌がキートン に似ていたからだと言っていたような記憶がある。
 
雑誌そのものを保存するのではな く、気に入ったポートレイトだけをハ サミで切り取る。ページのなかに隠れ ているスターではなく、自分の写真、自分用の写真として引き出しの奥に所 蔵する。その行為が何ともほほえまし い。

スターに対する思いは、せいぜい雑 誌のなかの写真を大切に保存すること ぐらいしか出来なかった時代があったのだ。その意味では早田雄二の仕事はファンの夢を継続させる貴重な記念物だったのだ。

デ・シーカ監督 作品に数多く出演し『ふたりの女』でアカ デミー賞主演女優賞受賞のソフィア・ロー レン(左)。日本にもファンが多く、「SMAP ×SMAP」にも出演した。『島の女』『伯 爵夫人』(チャップリン監督)『アラベスク』 『プレタポルテ』『NINE』にも出演。 右は、稀代のエンタテイナーといわれるモーリス・シュヴァリエ。映画ではオードリー・ ヘプバーンの父親を演じた『昼下がりの情事』、レスリー・キャロン共演の『恋の手 ほどき』が知られる。

左は、ヒッチコックのお気に入り俳優で『断崖』『汚名』『泥棒成金』『北北西に進路を 取れ』の4作品に出演したケーリー・グラント。『めぐり逢い』『シャレード』 も人気を博した。右はモンロー同様50年代を代表する〝セックス・シンボル〟 で、PLAYBOY誌はじめ多くの雑誌に登場したジェーン・ マンスフィールド。映画の代表作は『女はそれを我 慢できない』だろうか。34歳で自動車事故で死去。

ジョン・フォード監督作品やジョン・ウェインの西部劇に多く出演したモーリン・オ ハラ。『わが谷は緑なりき』『静かなる男』『スペンサーの山』などが印象に残る。

〝デューク〟の愛称で呼ばれたジョン・ウェインは西部劇や戦争映画に俳優として の信念を賭け、強く英雄的な役割を演じてきた。『駅馬車』『黄色いリボン』『リオ・ グランデの砦』『リバティ・バランスを射った男』などジョン・フォード作品に20作 以上出演。1969年に『勇気ある追跡』で念願のアカデミー主演男優賞を受賞。〝ミ スター・アメリカ〟ともいわれ、死去に際してはアメリカ各地で半旗が掲げられた。

「底抜けコンビ」で知られるディノの愛称で親しまれたディーン・マーティン(左) とジェリー・ルイス(右)。マーティンはシナトラ一家のメンバーでもあり、『リオ・ ブラボー』『ねえ!キスしてよ』『オーシャンと十一人の仲間』、アラン・ドロンと 共演した『テキサス』など西部劇やロマンティック・コメディに多く出演した。歌 手としての代表曲は「誰かが誰かを愛してる」。テレビ「ディーン・マーティン・ ショー」などのホストとしても活躍。ルイスの『底抜け』シリーズはパラマウント のドル箱映画で、そのほか『ボーイング・ボーイング』『キング・オブ・コメディ』 などにも出演。映画『虹を掴む男』『5つの銅貨』、テレビの「ダニー・ケイー ショー」でおなじみのダニー・ケイ(中)は、ユニセフの親善大使でもあり、度々 お忍びで来日しては日本の福祉施設を訪問していた。俳優&コメディアンの谷 啓の芸名はダニー・ケイに由来する。

サッチモの愛称で知られる20世紀を代表するジャズ・ミュージシャ ンのルイ・アームストロング(左)の大ヒット曲といえば「ハロー・ドー リー!」「この素晴らしき世界」。映画にも『上流社会』『5つの銅 貨』『ハロー・ドーリー』など数多く出演した。卓越した歌唱力により 〝ザ・ヴォイス〟と称されたフランク・シナトラ(右)は、20世紀を代 表する歌手であると同時に俳優としても多くの作品に出演。歌手と しての代表曲に「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」「マイ・ウェイ」「夜 のストレンジャー」が、俳優としての代表作にアカデミー賞助演男優 賞受賞の『地上より永遠に』のほか『踊る大紐育』『黄金の腕』『錨 を上げて』『夜の豹』『オーシャンと十一人の仲間』などがある。

印刷された雑誌のなかで 写真がいかに力を発揮するかを 考え続けた早田雄二

では、早田雄二の写真の、最も特徴 的なところはなんだろうか。

それは、額装され画廊や美術館に展 示されることが完成形ではないという ところだ。

写真には額装されてはじめて作品化 し、ピッタリと収まるものもある。早 田雄二の写真はそうではない。額装が 似合わないのだ。当然である。すべて、 雑誌のため、印刷媒体のために撮影さ れた写真だからである。

雑誌のためということは、写真が左 ページに掲載されるのか、右ページな のかを撮影時に考えることである。左 ページ用だとすれば、顔の向きが右側 の方向になる。

かりに、見開き全部を一枚の写真に するとすれば、ポーズにさまざまな制 限が発生する。ページを拡げたとき真 ん中はノリ付けされていて開きづら く、見えづらくなるからだ。顔の位置 がどこで、折り目が身体のどの部分に なるのかを考える必要があるのだ。

もちろん、右開きの雑誌なのか、左 開きの雑誌なのかも考慮しなければな らないだろう。

レイアウトが先に決まっている場合 だったら、身体や顔の向き、ポーズな どは撮影前に決められてしまうのだ 。こういう配慮は、額装する写真には まったくないことである。

そして、もちろん、印刷のインクを 考慮しなければならない。黒の発色によって、写真の焼き具合を調節しなければならないのだ。

特にグレーがどこまで表現されるの かに気を使っただろう。カラーならば 色彩のバランスを計算したに違いな い。

つまり、早田雄二は印刷され製本さ れた雑誌のなかで、いかに写真がその 力を発揮するかを考え続けた写真家なのである。

美術評論家の伊藤逸平が、
「芸術家というものは、その作品の上 に己れの個性を出すところに値打ちが あるわけだが、早田雄二はコンリンザ イそいつを出さない。それは早田雄二 が芸術家たることをいさぎよく放擲 し、つねに七〇点をかせぎ得る職人と しての意味をその仕事の上に見出し、 そこに悟りを開いたからである」(別 冊太陽掲載・写真の実業家早田雄二) と書いている。職人とは、印刷媒体の 効果を鮮明にイメージ出来る人のことなのだ。

50年代の美はジェラール・フィリップである。マレーは感性の美、フィリップは知性の美。『花 咲ける騎士道』で日本でも人気に火がつき、役名からファンファンの愛称で呼ばれる。53年のフランス映画祭で の来日時の熱狂ぶりは並大抵ではなく、54年1月号の「映画の友」の記事に、高峰秀子の「逢へば逢ふ程、自 然だし、見れば見る程、優雅だし、話せば話す程、そのデリカシイにはただただ感心するばかり」の言葉が載っ ている。『肉体の悪魔』『赤と黒』『モンパルナスの灯』などに出演。

『悪魔をやつけろ』『空中ぶらんこ』『ノート ルダムのせむし男』『ソロモンとシバの女王』『わらの女』で魅力を発揮したジーナ・ロロブリジーダ。

ネオリアリズモを代表する作品として評価 される『自転車泥棒』、カンヌ国際映画祭 でグランプリ受賞の『ミラノの奇蹟』のほ か、『終着駅』『ふたりの女』『昨日・今 日・明日』『ひまわり』などの監督、ヴィッ トリオ・デ・シーカ。

『にがい米』で注目され、『ふたりの女』 や『ゴッドファーザーPARTⅢ』にも出 演したイタリア俳優ラフ・ヴァローネ。 写真はローマの自身のアパートで撮影 され、1955年1月号の「映画の友」で 紹介された。

映画のなかだけでしか 死ねない存在のスターだから 笑った表情を撮りたかった

映画スタア撮影の苦心」という文章 の最後に、早田雄二がこんなことを書いている。

「日本の女優さんは愁に満ちたなんと なくセンチメンタルな哀愁美をあらわ した綺麗な人はたくさんいるが、ニッ コリと微笑んだような明朗な美貌の 持ち主は割合少ないのである。そこ で私の希望はこの微笑んだ、楽しく明 朗で、しかも作品的によい写真を撮り たい」(アルス1950年2月号掲載・ カメラ)

 意外である。印象として早田雄二の 女優たちはみんな笑っているものとば かり思っていたからだ。

事実見直してみると、やはり微笑ん でいるものが一番多い。
 
例えば、別冊太陽の「名女優 写真 家・早田雄二の撮った〝永遠に輝く一 瞬〟」(平凡社)の中に、「映画ファン」 「サンデー毎日」「週刊明星」「週刊サン ケイ」など72冊の表紙が載っている ページがある。その中で、笑っていな い女優はなんとたった3人だけであ る。

本誌の写真、ケイリー・グラントや ジーン・ケリー、ウィリアム・ホール デンなど洋画のスターたちもみな笑っ ている。それでも、まだまだ本人は明 朗な笑った表情を写真に映したかった のだ。

 何故センチメンタルではなく笑い顔 なのか。作品的にいい写真でかつ笑い なのか。  

それは、あらゆる写真は遺影だからと思えてならない。笑いの究極は悲し さだ。あまりに悲しいとき人は笑うし かなくなってしまう。当然のことだけ れど、笑いの極北は死を笑うことであ る。スターとは映画のなかで、何度も 死ぬことが出来る存在だ。

 いや、映画のなかだけでしか死ねな い存在である。だから、早田雄二は もっともっとスターたちの笑った表情 を撮りたかったのである。死を明朗に 笑いとばすスターたち。それが写真家、 早田雄二のテーマだったのである

往時のフランスを代表する名優ジャン・ギャバ ンは、渋い容貌と深みのある演技で絶大な 人気を得た。ラスト・シーンが名場面として語 られる『望郷』で演じたペペ・ル・モコ役で 人気を不動にし、そのほか『地の果てを行く』 『我等の仲間』などジュリアン・デュヴィヴィ エ監督作品に数多く出演。ジャン・ルノワー ル監督『大いなる幻影』、ジャック・ベッケル 監督『現金に手を出すな』、アンリ・ヴェルヌ イユ監督『ヘッドライト』『地下室のメロディ』 (アラン・ドロン共演)も忘れられない。

『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』では作品賞、監督賞でオスカーを獲得 したデヴィッド・リーン監督。スティーヴン・スピルバーグは『アラビアのロレ ンス』を見たことで映画監督を目指す決心をしたという。『逢びき』『旅情』『ド クトル・ジバゴ』『ライアンの娘』『インドへの道』など多くの作品が映画史に名 を残す。

「サスペンス映画の神様」といわれるアルフレッド・ヒッチコック監督(左)。1950年代はヒッチコックの黄金時代とされ『見知らぬ乗客』『私は告白す る』『ダイヤルMを廻せ』『裏窓』『泥棒成金』『知りすぎていた男』『北北西 に進路を取れ』など多くのヒット作を生み出した。そのほかにも『三十九夜』『レ ベッカ』『白い恐怖』『サイコ』『鳥』など。ハンフリー・ボガート主演『マルタの 鷹』で監督デビューしたジョン・ヒューストン(左から3.番目)。監督賞でオスカーを獲得 した『黄金』のほか、『アフリカの女王』『白鯨』『許されざるもの』(バート・ラン カスター&オードリー・ヘプバーン出演)『荒馬と女』『天地創造』などの監督作 品がある。『ミニヴァー夫人』『我等の生涯の最良の年』『ベン・ハー』で3回ア カデミー監督賞受賞のウィリアム・ワイラー(右から二番目)は、ハリウッド黄金期に活躍 した「巨匠の中の巨匠」と呼ばれる一人。グリア・ガースン、オードリー、チャー ルトン・ヘストンら多くの俳優をオスカーへと導いた。『女相続人』『ローマの休 日』『友情ある説得』『噂の二人』『コレクター』などの作品を残した。握手を交 わしているのは田中絹代。『失われた週末』『サンセット大通り』『アパートの鍵 貸します』でオスカーを獲得したビリー・ワイルダー監督(右)は、日本にも三 谷幸喜、和田誠、立川談志ら多くのファンがいる。『第十七捕虜収容所』『麗し のサブリナ』『七年目の浮気』『昼下がりの情事』『情婦』『お熱いのがお好き』 などの作品を誕生させた。

はぎわら さくみ

エッセイスト、映像作家、演出 家、多摩美術大学教授。1946 年、東京生まれ。祖父は詩人・ 萩原朔太郎、母は作家・萩原 葉子。67年から70年まで寺 山修司主宰の演劇実験室・天井棧敷に在籍。76年には「月刊ビックリハウス」を創刊、 編集長になる。主な著書に『思い出のなかの寺山修司』 『演劇実験室・天井棧敷の人々』『毎日が冒険』『小綬 鶏の家』(母・萩原葉子との往復書簡)、『死んだら何を書いてもいいわ 母・萩原葉子との百八十六日』『劇的な人生こそ真実・私が逢った昭和の異才たち』などがある。2016年、萩原朔太郎記念・水と緑と詩の町 前橋文学館の館長に就任した。」


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