新宿青春グラフィティ

いわゆる団塊の世代といわれる人々が「わが青春」を語るときその舞台として必ずといっていいほど新宿が登場する。
1960年代から70年代、新宿の街は ジャズ喫茶、アングラ芝居、ATG映画、サイケデリックといった カウンターカルチャーを求める多くの若者の熱気に包まれていた。
だが、新宿の街を語る文化はそれだけではない。
「中村屋」でカリーを食べ、「末廣亭」で落語を楽しみ、「らんぶる」でコーヒーを飲みながらクラシック音楽に親しむ。
これもまた、新宿の文化である。 映画人や演劇人、小説家に詩人、そして多くの若者をひきつけた 新宿にはどのような磁場があったのか。
作家・亀和田 武さんも、ある時期新宿となじみをもった一人。
亀和田さんが体験したあのころを訪ねて新宿を歩いてみることにした。
新宿という街の一つの文脈が見えてくるかもしれない。
※料金表示は2014年3月末日までもの

文・亀和田 武   撮影・言美 歩

Vol.19 (2014年4月1日号より)

 

新宿の巨大化の第一歩はステーションビルの誕生から

 

私の新宿。こう書いたときに微かな違和感を覚えた。どこか違う。何かが引っかかる。
もう一度〝私の新宿〞と書いてみて、むずむず落ち着かない理由がわかった。
私の、こう記したときの、ナルシシズムが恥ずかしかったのだ。「私の」と書いたとき、すでに意識のベクトルは、否応なく過去に向かっている。その後ろ向きの自己愛が、もう一人の私の目に(なんか俺って、格好悪いな)と映って、他人に気づかれない程度だが、私の頬をポッと赤らめさせたのだ。

私の新宿は、現在進行形である。東京の西郊に住んでいることもあって、都心に出かける頻度はめっきり減ったが、それでも月に何度かは中央線に乗って、東を目指す。どこへ。
 

新宿である。そうか、新宿かあ。十代のとき、毎日のように通いつめた街に、もう一度、私は戻ってきたのか。

いま新宿で、もっともひんぱんに足を踏み入れる場所は新宿五丁目の界わいだろうか。いまはない新宿厚生年金会館の裏手、医大通りの一帯だ。いまでは死語
となった〝文壇バー〞が、五丁目の界わいでは、現役感ばりばりで、いまもというか、いまだからこそのスピード感で営業している。
 

近くには居心地のいい寿司屋もある。ここも肩の凝らない店でね、リーズナブルな店だから、腹いっぱい寿司を食べて、店の兄ちゃんに旬の魚の話や、近所の街情報を聞いているうちに、夜中を過ぎてしまう。なんだろうね、この心地よさは。年をとるのも、悪くないだろ。若いころは知らなかったエリアを、嬉々としてうろつきまわる。徘徊老人に怖いものなしだ。

怖いものだらけだった、少年時代の新宿をそろそろ思いだしてみようか。

調子が乗ってきたから、私の新宿は、と書くよ。私の新宿は、やはり紀伊國屋書店だ。中学生のころから紀伊國屋には通っていた。

紀伊國屋は、文人社長の田辺茂一という酔っ払いの爺さんが魅力的だった。自身も味のあるエッセイを書き、作家との付き合い、面倒見もよくて、六〇年代の大橋巨泉、藤本義一が司会した深夜番組「11PM」にも、ときおりベロベロに酔っ払って出演し、放言を乱発していた。

私が高校に入学した一九六四年、紀伊國屋書店は、新宿通りに面した本店ビルを改築する。紀伊國屋書店は、洗練された建築デザインで、六〇年代半ばの、新宿におけるランドマークとなった。

東京五輪が開催され、東海道新幹線が開通した六四年、新宿駅の乗降客は、あっと驚く視線と歩行の変化を体験した。新宿ステーションビルの開業だ。全国初の国鉄(現JR)ターミナル駅に隣接された大型商業ビルだ。

それまでの新宿駅と駅前には、戦後の臭いがまだ残っていた。その新宿駅が、ステーションビルが出来たことで見た目を一新させ、さらに利用客の街の歩き方まで変えた。言及する人はあまりいないが、新宿ステーションビルの誕生は、新宿という街の巨大化の一歩だった。

その四年後に起きた、新宿駅構内とその周辺での学生、青年労働者、ヤジ馬、フーテンによる新宿騒乱事件も、駅ビル新設によって急増した膨大な乗降客があってこそ、発生した現象だ。特に、ヤジ馬とフーテン。東京周辺から〝なんか面白そうだから〞と集まる、非政治的ヤジ馬とフーテンがいたから、騒ぎはカゲキ派の思惑まで超えて拡大した。

「DIG」に「ジャズ・ビレ」新宿はジャズ喫茶の王都だった

 

物騒な時代の新宿を、まだ何者でもない若者として過した上京者に、後の小説家、中上健次がいる。中上は当時、自分の三大テーマは〝角材、ジャズ喫茶、睡眠薬〞だと記した。

ジャズ喫茶。そう、新宿はジャズ喫茶の街だった。ジャズ喫茶の数と、その店舗ごとに異なる個性によって、新宿はジャズ喫茶における王都だった。

私が新宿や渋谷、さらには中央線沿線のジャス喫茶を、小遣い銭の許すかぎり、日参するようになるのは、六五年の春からだ。大森の自宅から片道一時間五十分かけ通っていた、中央線の国立にある学校では、すでに落ちこぼれになっていた高校二年生の一学期だ。

新宿のジャズ喫茶には活気があった。数ある個性派から、何店かを記しておくと、やはり二幸(現アルタ)裏手のビルにあった「DIG」が質量ともに抜きんでた、東の横綱であった。ともかくレコード枚数が多かった。しかもジョン・コルトレーンの新譜などが、アメリカで発売された直後に、「DIG」のスピーカーから流れていた。

〝私語厳禁〞を徹底させた原理主義派の牙城が「DIG」だった。すごいぜ。客同士が一言、二言、ひそひそ話をしただけで、バイト店員が血相変えて飛んでくる。

「話は、しないで!」。店内がピリピリした空気で包まれているんだ。

写真家でもある店主の中平穂積は、来日したジャズメンをこの店によく連れてきたという。苦行僧のようにジャズを聴く客を見て、ジャズメンは驚く。こんな光景は、ニューヨークのジャズ・クラブでは、ついぞ見たことがない。一体、これは何だ? 「彼らは勉強しているんです。アメリカに行けないから、こうしてジャズの勉強をしているんです」。そう答えたものだと、当の中平自身が何年か前に雑誌で語っていた。

でも「DIG」は一目も二目も置かれる存在だった。高校三年生になって、学校で同じ趣味をもつ仲間が三、四人ほど出来た。永島慎二が貸本劇画誌「刑デ事カ」に読み切り連載していた『漫画家残酷物語』の一篇を大事そうに、弘中くんという友人が、私に見せた。「きっと、カメワダくんが好きになる劇画だと思うんだけど……」。ジャズ喫茶の店内が描かれていた。「この角度で椅子やスピーカーが描かれているから、たぶん『DIG』だと思うんだけど」
 

永島慎二は手塚治虫が主宰した「COM」創刊の直後から、新宿を舞台にした長篇『フーテン』を連載する。六七年の夏、東口広場=通称グリーンハウスにフーテンが大量発生する直前には、連載スタートしていた記憶がある。

深夜になっても何人もの仲間と徒党を組んでジャズ喫茶や酒場を転々とする若者群像を描いた永島慎二の登場は、私たちのマンガ観を変えた。こんなことまでマンガは描いていいのか! 永島作品では〈青春〉や〈生き方〉そのものが、テーマになっていた。

ジャズ喫茶の西の横綱は歌舞伎町の「ジャズ・ヴィレッジ」だろう。睡眠薬をかじってラリッたフーテンの多い店で、この店にも「DIG」とは正反対の緊張感が漂っていた。コーラの空きビンがずらりと並んで、店内のひりひりした荒涼感は嫌いじゃなかった。

私が高校三年から一浪にかけて、二日に一度は通ったのが、東口駅前にあった富士銀行先の地下の店「びざーる」だ。大テーブルをはさんで五人掛けのソファがある。テーブルは全部で五つはあったはずで、キャパは五十人だ。いつも満席。ファンキーな曲が、威勢よくかかっていて、店内の雰囲気もちょっとシャレているから、人気の店だった。

六八年の夏だったかな。前年に太宰治賞候補作『愛の生活』が「展望」に掲載されて、一躍、新時代のスタアとなった金井美恵子が、テーブルをはさんで私の前に座った。お姉さんと、そのボーイフレンドらしい男性の三人組だった。たぶん花園神社の縁日か何かの帰りだったのだろうか。小さな風車を持っていてね、それをときどきうれしそうにフーッて吹くんだ。オカッパ頭の、表情ゆたかな顔がかわいかった。

アート・ブレイキーの初来日を撮影したのは中平穂積さんである。その中平さんが1961 年に新宿に開いたのが、今や伝説ともいわれ るジャズ喫茶DIGだった。アート・ブレイキー、セロニアス・モンクら多くのジャズ・ミュージシャンがこの店を訪れている。続いて67 年には新宿・紀伊國屋裏にジャズバーDUGをオープンした(ロゴデザインは和田誠氏)。DIGは83 年に休業となったがDUGは現在 も靖国通り沿いで、日々多くのジャズファンたちで賑わっている。それまでのジャズ喫茶といえば私語禁止の図書館のような場所だった が、66 年に中平さんが渡米した折に見聞したアメリカのジャズバーに刺激され、酒を飲みながらジャズについて思い切り話しができる DUGを開いたのだ。村上春樹の『ノルウェイの森』にこんな件がある。「……ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の町 に出て、紀伊國屋書店の裏手の地下にあるDUGに入ってウォッカ・トニックを二杯ずつ飲んだ」村上氏もDUGに通っていた。DUG ではスタン・ゲッツ、チック・コリアもセッションをしている。60 年代は新宿はジャズの街だという時代でもあった。ジャズを介してサロ ン的な時代の花が開いたのだ。中平さんは現在も息子の塁さんとともに新宿のジャズの灯を燈し続けている。〔住〕新宿区新宿3-15-12 〔問〕03-3354-7776 〔営〕12:00 ~翌2:00(日曜・祝日は23:30まで) 〔休〕無休

若者時代の新宿体験が僕を今も新宿に降り立たせる

映画館のことも書いておかなくては。伊勢丹と明治通りをはさんだ一帯には何軒もの映画館があったが、忘れられないのは、やはり新宿ATGとシネマ新宿だ。特に後者。

さして映画好きでもない私が、地下にある座席数一〇〇にも満たない名画座に、前述した仲良し四人組でよく観に行った。最初に観たのが『白い馬』と『赤い風船』の二本立てだった。何回も飽きずに通ったのが『シベールの日曜日』だ。まだ十歳かそこらのパトリシア・ゴッジが愛らしく、そして怖かった。

シネマ新宿で映画を観たあとは、三越裏の「とんとん亭」に行った。ここで食べたとんかつの、おいしかったことといったら。特に特製ソースと、キャベツにかけるマヨネーズが絶品だった。「中村屋」のカリーもよく食べた。ほかのレストランや食堂では体験したことのない本場の味が魅力だった。腹一杯になったところで、コーヒーを呑みながら映画の感想を喋りあう。

三越裏の「青蛾」に行くこともあったが、ここは客の演劇関係者が気色悪くて、店主も無愛想でね。ジャズ喫茶は、音がうるさくて会話できないから、中央通りにあった「風月堂」、「ウィーン」、「らんぶる」の三店のどこかに入って映画談議に興じた。「風月堂」は外国人ヒッピーの多い店だった。特筆すべきは店内の設計でね、二階席は入って右側にタテ一列しかない。つまり本来なら二階を建てられるスペースが、ぽーんと吹き抜けになっている。そんなぜいたくな空間にバッハが流れているから、ちょっと日本離れした趣があった。薄汚れたフーテン客もいるんだけど、それを帳消しにしてしまう〝空間の力〞が「風月堂」には、あった。

クラシック好きじゃなかったけど、名曲喫茶「ウィーン」と「らんぶる」にも、よく通った。女の子とコーヒーと呑んだり、活動家仲間との会議や「共産党宣言」の読書会に使ったりした。

大げさに聞こえるかもしれないが、本当に街が学校だったんだよ。でも、やっぱり新鮮な衝撃をもっとも感じたのは、六八年の新宿駅だ。最初は駅のホームをデモしていて、そのうち「降りろ!」の号令の下、石の敷きつめられた線路にスニーカーが接触したときの解放感といったらなかった。

そうか、線路はホームから見下ろすだけのものじゃない。オレたちが走り回り、敵が目の前にきたら、足元の石を拾って投げてもいい場所なんだ。あのときの感触が忘れられないから、まだときどき新宿に降りたってしまうんだよ。

かめわだ たけし

作家。1949 年栃木県生まれ。成蹊大学文学部文化学科卒業。SFファンでもあり、「SFマガジン」誌のレビュー欄の担当を皮切りに80 年には「SF宝石」誌に『ザ・ビッグ・ウェーブ』を発表し、SF 作家としてデビュー。82 年には初のSF短篇集『まだ地上的な天使』を刊行。92 年10月から96 年5月までTBS「スーパーワイド」、98 年10月から2000 年9月までテレビ朝日「スーパーモーニング」の、それぞれ司会を務めた。現在も、コメンテーター、雑誌連載、競馬評論家と多方面で活躍中。『1963 年のルイジアナ・ママ』『愛を叫んだ獣』(甲斐バンドについての評論集)、『ホンコンフラワーの博物誌』『寄り道の多い散歩』『この雑誌を盗め!』『人ったらし』『どうして僕はきょうも競馬場に』『倶楽部亀坪』(坪内祐三氏との共著)など多数の著書がある。


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