中原淳一的なる 「美」の深遠

NHKの連続テレビ小説「おひさま」で女学生となったヒロインの部屋は中原淳一の絵であふれています。ヒロインが女学校に入学するのが昭和13 年のことだから、恐らくは「少女の友」を愛読していたのでしょう。
昭和20 年代には「それいゆ」「ひまわり」「ジュニアそれいゆ」が相次いで創刊され戦前戦後を通じて、中原淳一は昭和の少女たちに美へのあこがれを抱かせたのです。その画の中に詩情さえをも読み取り、美しいと感じた少女たち。
少女たちのおしゃれ心は、中原淳一の美のレッスンによって育てられていきます。今回は「それいゆ」「ジュニアそれいゆ」を中心に中原淳一の美の世界をご紹介しましょう。
取材協力 株式会社ひまわりや
Vol.8(2011年7月1日号)より

©JUNICHI NAKAHARA/ひまわりや

なかはら じゅんいち
1913 年香川県生まれ。15 歳で日本美術学校洋画科入学、17 歳で高級洋品店にオーダー服のファッションデザイナーとして迎えられる。18 歳のとき趣味で作ったフランス人形が認められ東京の百貨店で個展を開催。それがきっかけで雑誌『少女の友」のさし絵、口絵、表紙絵、附録などを手がけるようになる。戦後には雑誌「それいゆ」(46 年)、「ひまわり」(47年)、「ジュニアそれいゆ」(54 年)、「女の部屋」(70 年)を相次いで創刊。その活動は編集長として女性誌の基礎を作っただけにとどまらず、イラストレーター、ファッションデザイナー、人形作家、スタイリスト、ヘアメイクアップアーティスト、インテリアデザイナー、プロデューサーと多岐にわたる。83 年に70 歳で永眠。

流行はどうして生まれるのか、知っていますか?
それは人間が絶えず新鮮な美しさを求めているからなのです。   中原淳一

花咲く乙女たちのかげに

文:金井美恵子

 

〈少女趣味〉と呼ばれる〈紙の文化と神話〉

 

戦前の「少女の友」から戦後の「ジュニアそれいゆ」にいたるまでの30年以上の長い間、中原淳一は少女たちにとって特別な存在でした。その時代の欧米のファッション・イラストレーションや映画女優の顔の流行を実に巧妙に取り入れて少しずつ変化しながらも、一目見れば淳一の画であることがわかるタッチは、紙で出来て印刷された雑誌とその附録の小物の数々を通して、いわば〈少女趣味〉と呼ばれる毀誉褒貶の〈紙の文化と神話〉を作りあげたのでした。

戦前から、中原淳一の描く非現実的に大きなうるんだような眼と、眼の半分の大きさもないサクランボのように肉厚で小さな赤い唇や、細くて長い10頭身か11頭身はありそうな乙女たちに対して軽蔑的な嫌悪(不健康で通俗的ということでしょう)を示す大人たちがいたわけですから、この紙の文化はある意味で〈通俗〉な〈かげ〉の部分を持っていたのです。

メディアとしての紙の文化を享受し、また教育もされたのは少女だけではなく、幼児向けの「コドモノクニ」「赤い鳥」や少年向けの「少年倶楽部」を通して中産階級の子供たち全体といっていいのですが、たとえば、2010年に休刊になった杉浦康平のデザイン的視点が独特で高踏的だった「季刊 銀花」で、武井武雄や初山滋といった、アート系童画家(川上澄生的モダニズムや棟方志功的民俗主義につらなる)の特集を組むことはあっても、中原淳一や高畠華宵の特集は、まず、組まれなかったわけです。

「ひまわり」「それいゆ」「ジュニアそれいゆ」といった中原淳一が編集長として方針を形作った雑誌が、「季刊 銀花」と同じ文化出版局の「ミセス」や「装苑」に大きな影響を与えたのとは相当な違いです。「銀花」的なものが淳一を拒否するのとは全然別に、フェミニストの上野千鶴子は80年代の半ば、宮迫千鶴との対談『つるつる対談』の中で、当時の40代の〈ええ年のオバハン〉が〈心の中はまるで中原淳一ふう「ひまわり」の世界〉の〈依存心べったり〉で、まるで上野が教えている〈女子短大生がそのままオバン顔になった感じ〉だと発言していて、ここでも当然のことながら、淳一的なものは、ステレオタイプな批判によって拒否されます。

戦前から戦後にかけての淳一ファンは、その抒情的美少女画(日本画の美人画を思いきりよく通俗的にしたようでもある)が、荒々しく暴力的な、そして暗く貧しい戦中戦後の社会で少女たちが眼にする唯一の美しく心豊かな夢だったのだ、といった言い方をするのです。読者のおたよりの載っている「ひまわりさろん」の少女たちの手紙を読むと、たとえば宝塚の学校のように理想化された美しい学園(戦前の「少女の友」には〝S〞という言葉を流行させた川端康成の名高い学園もの少女小説『乙女の港』が淳一のさし絵で連載されていました)として「ひまわり」という雑誌が彼女たちの間に存在していたことがわかります。淳一以下、編集部員は〈先生〉と呼ばれているのです。長野の林千恵子さんは昭和二十五年七月号に、日本家屋の平凡な三畳程の座敷を少女らしく改造するアイディアを紹介するページ――こうしたつつましくもいじらしいインテリア改造のアイディアは、70年代から80年代まで若い人向けの女性誌に載っていたものです――が〈此の通り〉には出来ないまでも出来るかぎり〈應用してみよう〉と思い、この中原先生の雑誌が〈ただ單に少女の甘い夢をそゝる様〉なものではなく〈しっかりした〉もので、〈社會へ出る一歩手前の私達を作りあげて下さいます〉という調子です。「おたより」の描かれたレター・セットも言うまでもなく様々なデザインで淳一の画が飾られていたものだったでしょう。

雑誌はもちろん〈紙の文化〉なのですが、紙のメディアであると同時に文化的教育制度でもあったわけです。〈紙の文化〉は戦前の少女たちにとって、多色刷の千代紙(木版の江戸や京都の伝統的なものから、大正期のアールヌーヴォーの影響を受けた石版など)のおこづかいで買えるささやかな収集とそれを使っての手すさび(姉様人形、折り紙で作る小箱といった)にはじまり、やがて活字を知ると、お話しや子供向けの歌なども載った絵入りの雑誌を手にするようになり、女学生の年頃ともなれば、何種類かある中のそれぞれの好みと、属している階級(クラス)によって微妙に差異化された少女雑誌を選んで教養と娯楽として読むようになるでしょう。

〈女性の暮しを新しく美しくする婦人雑誌〉のキャッチコピー がつけられた「それいゆ」。「ジュニアそれいゆ」のキャッチコ ピーは〈十代のひとの美しい心と暮しを育てる〉となっている。

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編集長、ファッションデザイナー、人形作家、プロデューサー……

70年代初めに当時の平凡出版から堀内誠一のレイアウトで「アンアン」が創刊されたことは非常に画期的なことだったのですが、後発の「ノンノ」と一緒にして、当時いろいろなところへ旅行したり、ちょっとした雑貨を買い集めたり新しい風俗を作った若い消費者的女性たちを、アンノン族とジャーナリズムは名づけたものです。雑誌は少女雑誌から総合雑誌にいたるまで、ある一面、読者の生活や信条やあこがれや趣味と密接に結びついているものですから、実はアンノン族という呼び名は、ふさわしくなかったのです。「アンアン」と「ノンノ」と読者は重なっているようで、あきらかに別のグループでした。

とはいえ、この二冊の女性雑誌に共通する最大の、そして、それまでとは違う特徴は(女性週刊誌は別)、ファッションが、家庭での女性の手作りや町の洋裁屋で作る注文服ではなしに、アメリカ的大量生産の質の良いカジュアルな既製服が中心となることが決定的になったことでした。日本が高度成長期に入り、背伸びすれば手に入りそうな夢見る少女のあこがれの豊かさと美しさを独特な文化的雰囲気で伝えつづけた中原淳一的なものは、そのしばらく前からすでに古風すぎるお嬢様趣味として流行遅れになっていました。

とはいえ、中原淳一の圧倒的な影響がなければ存在しなかった「ひまわり」的なものを、単に〈少女趣味〉の世界としてくくってしまうわけにはいかないのです。

淳一は戦前から自分の仕事を〈紙〉の中のものだけにとどめず、創作人形という布で出来た〈立体〉の分野にも広げましたし、戦後は、「ひまわり」「それいゆ」「ジュニアそれいゆ」の表紙からさし絵、細かいカットにいたるまでの大変な数のさし絵を描くばかりではなく雑誌の編集長としての仕事、さらに戦前の紙という平面を抜け出して成立した立体としての人形が、生きた少女や女性に生まれかわったようにさえ見える、当時の女優や歌手をモデルとして起用したファッション・デザインを手がけ、50年代までの日本の若い映スター画女優の誰もがモデルとなって、淳一の華やかで清楚なドレスやアップリケのある新感覚のキモノを着た姿を雑誌にとどめているのは、改めて当時の雑誌やスタイルブックを見るとその顔ぶれの錚々(そうそう)たることに驚かされます。

淳一が伝説的な美少女スター浅丘ルリ子を誕生させたことはあまりにも有名ですが、しかし、すべての服は、ほっそりとした眼の大きな美少女たちがカメラの前で静止(ポーズ)して淳一のさし絵の一枚として見事におさまるためのもののように見えます。淳一の「スタイルブック」は型紙と縫い方が専門家の手で紹介されている本格的な洋裁のスタイルブックであるにもかかわらず、彼のさし絵の様式で描かれた彩色されたペン画のスタイル画は、どこかドラマチックすぎるというか、女装した若い美少年というか、宝塚のスターが男役のメークのまま女性のドレスを着ているといったふうの、ちょっとした不思議さがあります。当時のヨーロッパやハリウッド女優のメークやファッションに影響されながら(昭和二十五年八月号の「ひまわり」には「バザー」や「セヴンティーン」の置かれた本棚をバックに仕事場の淳一の写真が載っています)、淳一的少女の顔は時代と共に変化するのです。

前述の写真の紹介されているページには、彼がプロデューサー兼舞台美術監督として、マルセル・パニョールの戯曲『ファニー』をミュージカルとして、服部正の作曲、シャンソン歌手の高英男のマリウスで上演しようとしていることが記事になっていますが、なぜかファニーを誰が演じるのか一言も触れられていません。この若い人気シャンソン歌手(スタイル画の顔にも似ているし、淳一が戦後作った若い男の人形はマリウスに扮した高英男だったのかもしれません。

そして、当時「少女ブック」という雑誌に連載されていた『すみれさん』という女学生マンガでは、コーチャンと言えば当然、越路吹雪、高英男、鶴田浩二の三人のうちの誰か、のことで女学生がもめる、というギャグがありました)は、一緒にパリで生活し、ずっと後になって、ポピーちゃんと呼んでいた中原淳一の死をみとることになるのです。ところで、パニョールの『ファニー』がブロードウェーでジョシュア・ローガンの演出でミュージカル化されるのは1956年(昭和三十一年)で、その後61~62年ハリウッドで、レスリー・キャロンとホルスト・ブッフホルツの主演で映画化されるのですから、淳一の音楽的センスというか舞台に関するセンスは相当に高度に洗練されたものだったのではないでしょうか。もちろん、若い高英男の才能に刺激されつつ、淳一の新生面が〈少女〉という枠を超えて花開いたのです。まだ、丸山明宏(美輪明宏)はデビューしていませんが、三島由紀夫は『仮面の告白』(昭和二十四年)を発表し、二十六年には『禁色』を発表します。

花咲く乙女たちに託された文化の奥行きと深い美意識

「ひまわり」の若い当時の執筆者には、外国映画を少女向きに薄めて、あらすじの紹介だけにしたりしないで本格的な批評・情報記事を書く門川美代子という女性がいますが、これは姪の美代子の名を借用した淀川長治のペンネームではないでしょうか。門川美代子は、宝塚を〈圓満退學〉して映画女優になったばかりの淡島千景を新東宝撮影所に案内して『細雪』を撮影中のデコちゃん(高峰秀子)とトルコさん(轟夕起子)に介します。少し色っぽい感じの杉浦幸雄マンガのイラスト入りのページで、トルコさんは宝塚をやめた理由を質問されて〈やっぱり少女のお客さまだけじゃ、物足りないわ〉と言うのです。少女雑誌、あきらかに宝塚ファンが多数をしめていて、昭和二十二年には『乙女の港』コンビ(川端・中原)による『歌劇学校』という書簡体少女小説の連載がはじまった誌上で、少女のお客さまだけじゃ物足りない、と元宝塚女優の本音を書くのは、なかなかのことでしょう。

附記
編集部が調べてくださったのですが、門川美代子氏は、三木鮎郎(テレビの「スター千一夜」や「11PM」の司会者として有名だった)の夫人だそうです。私のカンは見事外れていたのですが、しかし、ある独特の文化的傾向の歴史が少女雑誌の中に流れていたことは確かなのです。

ところで、淀川美代子さんは、平凡出版の少女雑誌「オリーヴ」の編集長として、60 年に休刊になった「ジュニアそれいゆ」的香気を誌上に反映させていたのが強く印象に残っています。

この頃の「ひまわり」には、昭和三十年代「少女」や「りぼん」で独特でモダンなマンガ、戦前の中国育ちの恵まれた階級の少女たちの生活をしのばせる『フイチンさん』、そして『ぼんこちゃん』『メイコちゃん』(中村メイコの幼年期の伝記マンガ)を描いていた上田としこも登場していて、いわゆる「ひまわり」的少女趣味というものが、上野千鶴子のステレオタイプ化する類いのものとは、いささか趣きを異にする〈文化〉が存在していたのでした。

「ジュニアそれいゆ」は、休刊になる60年の少し前から、表紙画が内藤ルネに変り、昭和二十二年生れの私や二つ上の姉の世代にとってのスター的さし絵画家も「女学生の友」を中心に描いていた藤井千秋や藤田ミラノへと変り、〈少女小説〉と呼ばれていたものは、大人の小説の世界で大衆小説と呼ばれていた分野から、純文学と大衆娯楽小説の中間的なものと言われる中間小説が生れてブームになったのと似て、〈ジュニア小説〉へと変貌して、川端康成的な少女的細部の描写と魅力とは関係がなくなり大衆化します。端的に言うと、〈ジュニア小説〉は少女小説と違って若い世代の男女交際についての中途半端な小説でした。

昭和三十年代のはじめ、小学生から中学の一、二年といった年代の少女たちを読者対象としたいわゆる少女雑誌「少女クラブ」「少女ブック」「少女」、「りぼん」「なかよし」などがありましたが、それ等の雑誌には戦前の「少女の友」や「ひまわり」の影響が色濃く残されていました。マンガだけではなく、口絵に色刷りの抒情画があり、絵物語と少女小説という分野が目次上にあったこと、必ず、読者のサロンがあったことなどからも言えることですが、何かが決定的に違っていました。

その中で「りぼん」という雑誌を、姉と私は好きだったのですが、そこでは内藤ルネの描いたシールがとじ込み附録についているのが他にはない、ちょっとお姉さま的に気取った感じだったし、上田としこのマンガもあって、連載小説の執筆者は、吉行淳之介や遠藤周作で、さし絵を描いていたのは「ひまわり」や「それいゆ」でも見たことのある日向ふさ子でした。後年、「りぼん」の編集長をやっていたのが、『虚無への供物』の塔晶夫(中井英夫)だったことを知って、ああ、と溜息を吐くことになったのですが、あの内藤ルネさんを私たちに、紹介してくれたのは、日劇のゲイの演出家でした。

花咲く乙女たちを戦前から戦後にかけて紙のメディア上で作りつづけ、幼い少女の読者たちを楽しませた独特な花咲く乙女たちのかげには、そうしたゲイ的な世界があったのです。

中原淳一の描く少女たちは、概念的(ステレオタイプ)フリルとリボン(そして花束もとても重要なのですが)に飾られ、上野千鶴子と宮迫千鶴の嫌悪する〈年とってるだけで成熟というものを経験しないままオバハンになって〉しまう読者を作り出したのかもしれませんが(どうでしょうか?)、現在私たちは、乙女たちのかげにどのようなはば広い、しかし表面にはあらわれにくく深い文化と美意識が存在したのかを知ることが出来るのです。

かない みえこ

作家。1947 年高崎市生まれ。小説、文芸評論、映画評論、エッセイなど幅広く執筆活動を展開。67 年『愛の生活』が太宰治賞次席となる。同年、現代詩手帖賞受賞。79 年『プラトン的恋愛』で泉鏡花文学賞受賞。小説に〝目白四部作〟といわれる『文章教室』『タマや』(女流文学賞受賞)『小春日和』『道化師の恋』をはじめ『岸辺のない海』『恋愛太平記』『軽いめまい』『柔らかい土をふんで、』『彼女(たち)について私が知っている二、三の事柄』(目白シリーズ)『噂の娘』『快適生活研究』(目白シリーズ)、エッセイに『夜になっても遊び続けろ』『おばさんのディスクール』『遊興一匹迷い猫あずかっています』『愉しみはTVの彼方に』
『「競争相手は馬鹿ばかり」の世界へようこそ』『目白雑録』(1,2,3)『楽しみと日々』『昔のミセス』『猫の一年』など多数の著書がある。

「それいゆ」「ジュニアそれいゆ」を飾った若きスターたち

 

読売新聞の連載小説『緑はるかに』が映画化されることになり主役公募に応募したのが芸能界に入るきっかけなのですが、そのときの審査委員のお一人がさし絵を描いていらした中原淳一先生でした。中原先生が推してくださらなければ今の私はいません(編集部註:約二千人の応募があったが、チラッとこちらを向いた少女の目を見てこの少女だと一瞬で心を決めた、と中原淳一は言っている)。カメラテストをするということで、主人公の少女に合わせて髪を短くカットすることになったのですが、私は当時長い髪をしていて中原先生自ら鋏を入れてくださいました。そしてメイクも先生自らの手で最後にアイラインを入れてくださると先生のお描きになる主人公の「ルリコ」に似てきたのです。髪型は「ルリコカット」となり大流行して、そのとき私は「浅丘ルリ子」になりました。私の家は四人姉妹なのですが、みんな「それいゆ」や「ジュニアそれいゆ」が大好きで、先生のデザインするお洋服を溜息をつきながら眺めていました。あの頃はみんな貧しくお洋服を作ったり買ったりなんて夢の出来事でした。それが中原先生にかわいらしい服をたくさん作っていただき、「ジュニアそれいゆ」に少女モデルとして出させていただくことになったのです。今でもあのときの服のデザインはしっかり覚えています。女優・浅丘ルリ子は中原先生との出逢いから始まったのです。
談・浅丘ルリ子

「それいゆ」といえばファッションの代表みたいな雑誌で、当時のほとんどの女性たちが夢中になって読んでいたと思います。中原淳一先生の服は少女たちのあこがれでした。だから、高峰秀子さんはじめ錚々たる大先輩の女優さんたちが出ていらっしゃる「それいゆ」でお声をかけていただいたときは、感激と同時に緊張もしました。先生のすごいところは、服のデザインだけでなく、メイクもスタイリングもご自身でなさるところ。いまでこそスタイリストという専門家がいますが、当時はそんな人はいませんでしたものね。しかも当時すでに今のファッションを想像してデザインしていたかのように、お洋服も髪型もすべてが時代の先端をいっていました。メイクにしても、女性の理想とするスタイルをあの時代にすでに見出していたという、すごい発想力をお持ちでしたね。女性はかくあるべし、という男性が描く理想像かもしれませんが、研ぎ澄まされた美意識の持ち主であり、一歩も二歩も先をいく卓越したプロデューサーでいらしたと思います。今、先生の作品を拝見して、改めてそのことを確信します。 談・司 葉子

黒澤明監督の『野良犬』で映画デビューしたのですが、中原淳一先生は折にふれ「黒澤さんより先に僕のほうが目をつけたんですよ」とおっしゃっていました。「それいゆ」には当時数多くの女優さんたちが雑誌モデルとして登場していたのですが、私にもたびたび声をかけていただきました。帽子のモデルという回もありました。もともと「それいゆ」「ひまわり」が大好きで、女学校のとき、神保町に「ひまわり」を売っている本屋さんがあって、必ず買いに行っていました。『野良犬』に出ていた16 歳のとき、三船敏郎さんに銀座に食事に連れて行っていただき、その帰りに三船さんが「ひまわり」を買ってくださって、大事に抱えて家に帰ったことをよく覚えています。中原先生の絵が好きなの。特に花の絵が好き。先生の描く花は、日本の花ではなく、外国の匂いのする花なの。だから好きだったわね。先生のデザインするお洋服も素敵で、よく真似をしましたよ。戦後の何の夢もない時代でしたから、男の人も素敵なお洒落な人もいなくて、少女歌劇のような、女が男役をやる世界のような美しさ。どんなにみんなが胸をドキドキさせたか。先生の絵を見て、早くタイトスカートやパンプスが似合う大人の女性になりたいと願っていました。今も大好き、古い絵じゃないの。今、先生にお会いできるとしたら、今もずっと素敵、ってお伝えしたいわね。 談・淡路恵子

有馬稲子

夏木陽介

中原ひとみ

雪村いづみ

柴田吾郎(田宮二郎)

中原淳一専門店 それいゆ

ノート、一筆箋、レターセット、ポストカード、シールなどの雑貨、書籍、Tシャツ、複製画などオリジナル商品が購入できます。また、中原淳一の当時のデザイン画から忠実に復刻したブラウスやセーターなどが人気を集めています。
〔住〕渋谷区広尾5-4-16〔問〕03-5791-2373〔営〕11:30~20:00 〔休〕年末年始
[HP]http://www.junichi-nakahara.com/shopsoreiyu


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