幸せを生んだ昭和の家

貧しくとも楽しい家の記憶

 

昨年は昭和九十年、戦後七十年の節目の年であった。

平成も二十八年に突入し、もはや─昭和は遠くなりにけり─だろう。

空襲で家を失ったもの、夫や父親を失った遺族の苦労、あらゆる生活用品が不足した敗戦直後。
大人も子供も力をあわせ、良く働いた。苦しかったあの時代、
いま振り返るとそこには家族の温もりがあった。

小さなちゃぶ台を囲んだ楽しい夕餉

昭和時代は一九二五年から一九八九年までの六十四年間。戦前が二十年、戦後が四十四年。私の生まれは昭和二十一年(一九四六)で、昭和が終わった年には四十三歳。生後から中年までの人生は昭和とともにあった。

敗戦直後の生まれはどん底からのスタートだ。衣食住、教育、病院、何もかもが不足していた。唯一の娯楽であるラジオは夕方の淋しい頃、戦争で行方不明になった身寄りを探す「尋ね人」という時間があり、「○○県出身の△△さんを探しています」と言うアナウンサーの声をはっきり覚えている。戦争で親も家もなくして浮浪児となった子供は保護施設に収容された。その施設を描いたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」を熱心に聴き、自分もそうなっていたかもしれない、親も家もある自分は幸せだと思わなければいけないと心を引き締めた。

私の家は貧しかったが、日本中がそうであるから当たり前で、逆にほんのたまに新調の服で学校に行くと級友から冷やかされ、むしろぼろ着のままでいたかった。食卓にのぼる品は貧しく少なく、食べ物を残すということは考えられず、母はもっと良いもの、栄養のあるものを子供たちに食べさせてやりたいという気持ちがつねにあっただろう。

続きは本誌((Vol.27)をご覧ください。


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