夏は海!

生まれて初めての救急車体験

 

 昨年の今ごろ、雨の日のことだ。JR某駅で電車出発時間の表示を見て、急げばこれに乗れると走り出した。

 次の瞬間、私は駅の構内に突っ伏していて、心の中で「恥ずかしい!」と叫んでいた。濡れた地面で滑ったのか、スライディングのように転んでしまったのである。

 「大丈夫ですか?」

 ご婦人が二人駆け寄ってきて、助け起こしてくださった。親切な人はいるのだと感動しながら起き上がってびっくり。ストッキングは破れ、剥き出しになった左膝が無残なことになっているではないか。

 それでも冷静に、というよりのんきに、「安いストッキングでよかった」などと思ったのだが、お二人は救急車を呼んだほうがいいと、駅員室につれていってくださった。

 お礼を申し上げると、さっと風のように帰ってしまわれたのでそれきりになってしまったが、ご親切は忘れません。人のやさしさにふれ、自分も人にやさしくありたいと思う。

 さて、そんなわけで生まれてはじめて救急車に乗り、近くの病院へ。運ばれた先は、救急病棟である。

 傷を消毒し、レントゲンを撮り、スライディングで手すりに頭もぶつけたので、頭のCTも撮る。幸い骨は折れておらず、頭も異状なしということだった。
 

生まれて初めての救急車体験

 

 局所麻酔をして、救急病棟のベッドで縫合する。せっかくなので、先生に見ていいですかと尋ねると、

「やめておいたほうが無難です」。

 想像がふくらみ、かえってこわくなってきたが、そこで先生が笑顔で、力強くおっしゃった言葉である。

「これから海も行くでしょうから、きれいに縫いましょう!」

 海! それはなんと健やかで、明るい響きなのだろう! すっかり忘れていたけれど、夏には海に行ったものだった。平気で日焼けして、水着のあとがついて得意になった。水しぶき、光る砂浜……。記憶が一瞬にしてよみがえり、きらめく。海に行きたい! 海に行こう! 心の中で、立て続けに感嘆符が弾けた。

 かくしてベッドに仰向けに寝て、天井を見ながら膝を縫われること十二針。嗚呼、でも海が私を待っている。

 ……残念ながら、ケガというのは、そう甘いものではなかった。傷自体は順調に回復して約一週間後に抜糸となり、やがて傷口もふさがって、これで完治と思いきや、中のほうが痛くて膝が曲げられない。普通に歩けるようになるのに半年以上かかり、ぼやきのうちに二つの季節を見送った。

 そしてふたたびめぐり来た夏、左膝を横切る傷痕を見ては決意をあらたにする。今年こそ海へ!

ありよし たまお

作家。東京生まれ。早稲田大学哲学科、東京大学美学藝術学科卒業。ニューヨーク大学大学院演劇学 科修了。1990年、母・佐和子との日々を綴った『身がわり』で坪田譲治文学賞受賞。『ニューヨーク空間』『雛を包む』『車掌さんの恋』『風の牧場』『恋す るフェルメール 37作品への旅』『カムフラージュ』 『美しき一日の終わり』『ソボちゃん いちばん好きな人のこと』など多数の著書がある。


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