◆「洋食50BAN」のマスターは王さんの従兄弟
八広駅に途中下車してみたいと思ったのは、世界のホームラン王・王貞治さんゆかりの地こそ、墨田区八広であることを知ったからである。八広駅から「八広はなみずき通り」に出てをまっすぐ東へ進むと3分くらいで到着したのが「洋食50 BAN」。そこはまさに王さんの生誕の地で、ご両親の王仕福さん、登美さんが始めた中華料理店「中華五十番」のあった場所。王さんが5、6歳の時、一家は現在のスカイツリーの近く「業平」に移転していったが、八広の店は王さんの母、登美さんの弟夫妻が「中華五十番」を引き継ぐことになった。現在は王さんの従兄弟にあたる、川口俊幸さんがマスターとなり、昭和44年から洋食のお店「洋食50 BAN」に業態をかえたという。「この場所のことは、貞治さんは憶えていないと言っていましたよ」とはいえ、昭和22年にこの地に生まれ育った川口さんは、7歳上の王さんと「八広」の今昔物語を思い出してもらいながら、ご自身のことや王さん一家のことも語っていただいた。
昭和の時代は、荒川駅前(八広駅)は70店ほどのお店が軒を連ねる商店街だったという。主婦たちが買い物かご片手に、豆腐屋、魚屋、味噌屋、乾物屋などの商店街に連れ立つような下町風景だったが、30年前くらいから、コンビニやスーパーができると、個人商店の小さなお店が一斉に店仕舞いして、街の雰囲気が変わっていったという。
かつての商店街に連なっていた「洋食50 BAN」も道路拡張によってセットバックしてしまい、以前は4、50人ほどが入る店で宴会もできるほどの広さだったが、今では1階は厨房とカウンター席、テーブル席が6つほどに縮小されて3階建てのビルになった。王さんのご両親から譲り受けた当時の「中華五十番」はとても繁盛し、川口さんも小さい頃からお店を手伝った。王さんの後を追うように野球に没頭したが、高校時代はラグビーに転向した。スポーツに打ち込むばかりで、お店を継ぐということは露ほども思っていなかったという。父が50代で亡くなり一時閉店したが、喫茶店を始めた母の手伝いをするうちに、はじめはカレーとサンドイッチの注文に応えていたが、常連客からチャーハンなどいろいろと頼まれるようになった。やがて川口さんは独自で料理を勉強しながら洋食のレパートリーを増やしていったという。チャーハン、ドライカレー、ポークライス、シーフードライス、かつ丼、海老丼、スペシャルカツサンド、海老サンドなどメニューも豊富だ。
「洋食50BAN」の分厚いカツサンドが人気で王さんも大好物だったとか。一時期東京ドームで「カツサンド」を販売していたこともあったが、「設備に投資して9年間続けたがあまり儲からなかった」とは川口さん。失敗談も面白可笑しく話してくれる川口さんの話を聞いていると、自然と笑みがこぼれてしまう。おいしい「洋食50BAN」の秘密は、揚げ物に使う「油」にあるという。オランダ産の最高級ラード・カメリアでじっくり揚げているそうだ。ランチにいただいた、ヒレカツもチキンカツも衣が薄めであっさり仕上がっていた。
王さんは墨田区方面に用事があると、「としちゃん、今から行くから」と今でもお店に立ち寄るそうだ。早稲田実業の高校生のころから、王さんは手の届かないスターになってしまったが、「洋食50BAN」を訪ねてくるときはリラックスして、「いつも7歳上のお兄ちゃんに戻っていた」と川口さんは嬉しそうに語る。
以前の「八広駅」西側に隣接するようにあった石鹸工場は、倍賞千恵子主演、山田洋次監督の『下町の太陽』のロケ地になっている。また小津安二郎監督の『東京物語』の冒頭のシーンに映り込んでいる駅舎は、当時の荒川駅だったという。東京の下町の工業地帯を代表するような光景だったのだろう。近くには日活向島撮影所があったが、後に久保田鉄工隅田川工場に変わり、現在ではマンションが建っている。かつては硝子工場なども多かったが、時の経過とともに工場がマンションに変わっていき、移り住んでくる住民も変わってきているようだ。
変貌著しい東京の下町の一角には、慶長の時代(1600年代)に分霊したと伝えられ、地元の人から「こんにゃく稲荷」として親しまれている三輪里稲荷神社があると教えられ、お参りをして王さん一家が移り住んだ業平方面に足を進めた。この日は何と2万歩も歩き、心地よい疲れで熟睡。健康にもよい下町さんぽであった。
洋食50BAN
[住]東京都墨田区八広4-25-5
[問]03-3617-0428
[営] 11:30~14:00(L.O.13:30)(昼) 17:30~21:00(L.O. 20:30)
[休] 月曜、第2、第4日曜日
[問]03-3617-0428
(営業時間・定休日は変更となる場合があるので、来店前に店舗にご確認ください)
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