new 21.12.27 update

成城シネマトリビアー語り継ぐ映画村 

1932年、東宝の前身であるP.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。


第10回

成城に住んだ映画人には、こんな人が…… Vol.1

文:高田 雅彦

 これまで述べてきたとおり、成城という街は、まさに‶映画村〟と呼ぶべき地である。‶日本のビバリーヒルズ〟と言っても差し支えないほどだが、それでは、いったいどういう映画人がここに居を構えたのか? 今回は、このいささか興味本位とも言える話題を取り上げてみたい(註1)。

 そもそも成城は、P.C.L.のちの東宝)が1932年に撮影所を設けたことで映画人が住み始めた、という歴史をもつ街である。‶職住近接〟は世の常、連載第1回でご紹介した『七人の侍』関係者の他にも、次のような監督・スタッフ・俳優らが続々と成城の住人となる。

 まず、監督では山本嘉次郎(34年にP.C.L.入社)、成瀬巳喜男(35年に松竹からP.C.L.移籍)、斎藤寅次郎(37年、同じく松竹から移籍)、マキノ雅弘(41年の『昨日消えた男』から東宝で仕事開始)、稲垣浩(50年から東宝、52年に成城に転居)といった重鎮たち、それに黒澤明の盟友・本多猪四郎(33年、P.C.L.入社)、小田基義(35年入社で、やはり山本嘉次郎門下。『七人の侍』ではB班監督を務める)、さらには青柳信雄(37年、東宝に製作者として入社)、市川崑(京都のJ.O.スタヂオ出身)といったところが、割合古くからの成城居住者である。

 このうち山本、成瀬、本多、青柳、市川は、成城で何度かの引越を経験。当初はどうしても、撮影所から近い小田急線南側の地に住むケースが多かったが、山本嘉次郎(註2)は最終的に、のちに樫尾俊雄邸(現・樫尾俊雄発明記念館)となる成城四丁目の崖上の地に邸宅を構える。その景観から成城学園では‶ハイデルの丘〟と称され、教員生徒らに親しまれた傾斜地=国分寺崖線の際(きわ)に位置し、眺望にも優れたこの坂上の地には、やがて本多猪四郎も転居。玄関脇の窓辺にはゴジラのフィギュアが鎮座していて、すぐに本多監督邸と判ったものである。

山本嘉次郎監督 イラスト:岡本和泉
かつて山本邸があった場所に建つ樫尾邸(現樫尾俊雄発明記念館) 筆者撮影

 さらに、この見晴らしの良い崖線上には‶バンツマ〟こと坂東妻三郎が土地を取得、田村正和、田村亮らの子息たち(註3)が京都からここに移住してくる。近隣には、のちに峰岸徹、K・Mなどの俳優、小谷承靖、大林宣彦といった気鋭の監督たち、さらには映画人ではないが、イラストレーターY・T氏や武者小路実篤(わずかな時期だが)、大江健三郎などの作家たちも家やアトリエをもつ。大林作品に峰岸徹が常連俳優となり、本多監督が黒澤明(やはり成城に転居)とゴルフを共にしたり、黒澤作品の監督補佐を務めたりしたのも、これすべて近所住まいのなせる技。小谷監督が外部作家の大林監督(テニス仲間だったという)を快く東宝に迎えたのも、案外そうした関係からだったのかもしれない(註4)。

 崖のすぐ東側には、黒澤明の釣り仲間・千秋実に、大映のトップ女優・京マチ子が居住。そして、当初は東宝撮影所の近所(ここも崖上)に居を構えていた石原裕次郎も、成城駅前の不動産業者「R」の仲介で、この近辺に移り住む。いずれも広大な敷地を持つ(当時の成城ではこれが当たり前?)豪邸で、他所から成城に嫁いで来られた奥様方が京マチ子の家を見て「天国のよう」と思ったのも、誠に無理からぬ話であった。

千秋実は『七人の侍』で林田平八を演じた。イラスト:岡本和泉

 黒川弥太郎、滝沢修といった重鎮俳優が成城住まい(千秋、京邸のすぐそば)だったことをご存知の方は少ないだろうし、ましてや、長らく狛江住まいだった土屋嘉男や『隠し砦の三悪人』(58年)で雪姫を演じた上原美佐が、晩年このすぐ近所に住まっていたことを知る方はほとんどいらっしゃらないであろう。

『羅生門』で真砂を演じた京マチ子 イラスト:岡本和泉

 新東宝でプロデューサーの役を担い、のちに監督に転じた青柳信雄は、当初この南側に位置する「富士見橋」(註5)の袂(小田急線の線路脇)に家を構えていた。お隣は俳優・藤田進の邸宅で、筆者はこの家が昭和30年代中期の人気テレビドラマ「少年ジェット」(59〜60年/フジテレビ系)の探偵事務所として使われていたように記憶するが、幻覚だろうか? ジェット少年は、子供なのにオートバイをここから出動させており、当ドラマでは怪盗ブラックデビルとの対決シーンが成城の街(‶成城名物〟の鉄塔と生垣が写り込むことで、それと判る)を舞台に展開されただけでなく、ジェットのオートバイが富士見橋や隣の不動橋を疾走するショットも多く見られた。

現在の富士見橋。橋の向こう側には青柳邸、藤田進邸があった。『世界を賭ける恋』(59年:滝沢英輔監督)で石原裕次郎と浅丘ルリ子が出会うのはここ。 筆者撮影
富士見橋から眺めた‶霊峰〟富士の夕景。 撮影:神田亨

 高峰秀子宅に下宿した経験を持つ市川崑は、現在の成城ハイムの辺りから、小田急線南側の成城二丁目に家やマンションを移し、成瀬巳喜男は、富士見橋近辺から砧を経て、最終的に駅からやや離れた成城七丁目の地に居を転じる。

 若き日には成城に下宿、矢口陽子との結婚時には祖師谷一丁目の堀川弘通宅に間借りした経験を持つ黒澤明は、戦後になって千歳船橋、狛江の泉龍寺地所内(『七人の侍』の頃)を経て、世田谷の松原(『天国と地獄』の頃)、さらには恵比寿(『デルス・ウザーラ』の頃)などを転々。『影武者』製作前には成城二丁目に自邸を構え、最終的には成城四丁目のマンションの一室で没している。スティーヴン・スピルバーグをして、「あの黒澤明が、家の一軒も残せなかったのは何ゆえか」と言わしめたほどだから、哀しいことだが、それだけ日本の映画監督の地位(というか収入)は低いということなのであろう。

(この項続く)

(註1)当然のことだが、ご存命の方や現在もお住まいの映画人はオミット、あるいはイニシャルで表記している。

(註2)ヤマカジ先生こと山本嘉次郎は、黒澤明や高峰秀子、三船敏郎を育てた名伯楽としてだけでなく、晩年はNHKのクイズ番組「それは私です」のレギュラー回答者としても有名であった。共に『ハワイ・マレー沖海戦』(42年)などの戦意高揚映画を作った円谷英二は、戦後、公職追放の目に遭うが、山本はこれを免れている。

(註3)正和は祖師谷小学校、亮は開学したばかりの明正小学校に転校後、成城学園に進学。二人とも成城大学の卒業生に名を連ねている。

(註4)大林監督は筆者に対し、小谷承靖監督への感謝の念を得々と述べておられた。小谷監督作『ピンクレディーの活動大写真』(78年)や『ホワイト・ラブ』(79年)に大林監督がゲスト出演しているのは、その表れであろう。

(註5)成城学園の砧移転当初は、街のどこからでも富士山が望めたそうだが、この橋(下には小田急線が走る)から眺めた富士の姿はとりわけ美しい。『世界を賭ける恋』(59年:滝沢英輔監督)のほか、『サザエさんとエプロンおばさん』(60年:青柳信雄監督)、『軍旗はためく下に』(72年:深作欣二監督)など、近隣在住の監督により、この橋の姿が捉えられた映画も数多い。


たかだ まさひこ
1955年1月、山形市生まれ.生家が東宝映画封切館「山形宝塚劇場」の株主だったことから、幼少時より東宝作品に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。大学は東宝撮影所にも程近い成城大を選択。卒業後は成城学園に勤務しながら、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆を中心に活動。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)がある。近著として、植木等の偉業を称える『今だから! 植木等』を準備中(2022年1月刊行予定)。

こちらの記事もどうぞ
サントリー美術館様

特集 special feature 

挑戦し続ける劇団四季

挑戦し続ける劇団四季

時代を先取りする日本エンタテインメント界のトップランナー

御存知! 東映時代劇

御存知! 東映時代劇

みんなが拍手を送った勧善懲悪劇 

寅さんがいる風景

寅さんがいる風景

やっぱり庶民のヒーローが懐かしい

アート界のレジェンド 横尾忠則の仕事

アート界のレジェンド 横尾忠則の仕事

60年以上にわたる創造の全貌

東京日本橋浜町 明治座

東京日本橋浜町 明治座

江戸薫る 芝居小屋の風情を今に

「花椿」の贈り物

「花椿」の贈り物

リッチにスマートに、そしてモダンに

俳優たちの聖地「帝国劇場」

俳優たちの聖地「帝国劇場」

演劇史に残る数々の名作生んだ百年のロマン

「芸術座」という血統

「芸術座」という血統

名作『放浪記』の舞台から「シアタークリエ」へ

秋山庄太郎ポートレートの美学

秋山庄太郎ポートレートの美学

美しきをより美しく

久世光彦のテレビ

久世光彦のテレビ

昭和の匂いを愛し、 テレビと遊んだ男

加山雄三80歳、未だ青春

加山雄三80歳、未だ青春

4年前、初めて人生を激白した若大将

ウイスキーという郷愁

ウイスキーという郷愁

いつか「ダルマ」が飲める大人になってやる

昭和は遠くなりにけり

昭和は遠くなりにけり

北島寛の写真で蘇る団塊世代の子どもたち

西城秀樹 青春のアルバム

西城秀樹 青春のアルバム

スタジアムが似合う男とともに過ごした時間

「舟木一夫」という青春

「舟木一夫」という青春

「高校三年生」から 55年目の「大石内蔵助」へ

川喜多長政 &かしこ映画の青春

川喜多長政 &かしこ映画の青春

国際的映画人のたたずまい

ある夫婦の肖像、新藤兼人と乙羽信子

ある夫婦の肖像、新藤兼人と乙羽信子

監督と女優の二人三脚の映画人生

中原淳一的なる「美」の深遠

中原淳一的なる「美」の深遠

昭和の少女たちを憧れさせた中原淳一の世界

Present

あの人この人の、生前整理archives

あの人この人の、生前整理archives

私にとっての箱根 archives

私にとっての箱根 archives

information

小田急沿線さんぽ 

読者の声

コモレバクラブ

Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial
error: Content is protected !!