「結局太宰は、文学至上主義の人だったのです─」と、作家・太田治子さんは冷静に言う。
太宰治は、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて次々に作品を発表した。『走れメロス』『津軽』『人間失格』『ヴィヨンの妻』など数々の傑作は今でも読み継がれている。なかでも没落した華族を主人公にした『斜陽』はベストセラーになった。雑誌「新潮」の昭和22年7月号から10月号まで4回にわたって連載され、一冊の本になったのは、昭和22年12月である。この『斜陽』は、太田静子さんの日記をもとにしたものであることは周知のとおりである。
太田静子さんは太宰治の愛人として、治子さんを生んだ。
「證 太田治子
この子は 私の可愛い子で 父をいつでも誇って すこやかに育つことを念じてゐる 昭和二十二年十一月十二日 太宰治」と一通の証書を静子さんに贈った。
この証書を太宰が書いたとき、傍らには一緒に玉川上水に入水自殺をした山崎富栄がみていたという。
静子さんは、滋賀県近江の開業医のもとに生まれ何不自由なく育てられたお嬢様だった。父親の守が亡くなると、母親の太田きささま(静子さんはフルネームで呼んでいた)と弟を頼って上京。弟の同僚と気のすすまぬ結婚をして娘を生んだものの、生後間もなく肺炎で娘を亡くしてしまう。そして翌年協議離婚。失意のなか太宰の愛読者だった弟の薦めで、『虚構の彷徨』を読み、娘の死にまつわる日記を太宰に送ったことがきっかけで、既婚者の太宰と恋に落ちることに。
治子さんは、父親と会うことはなかった。そして静子さんは世間という大海の荒波に揉まれながらも、女手一つで必死に働き、治子さんを育てた。母一人子一人で育った母娘は互いに支え合い、かけがえのない存在だった。静子さんは、69歳で空の上に旅立った。
治子さんにとっては、「太宰治」は、長い間目の上のたんこぶであり、重く苦しい存在だった。昭和57年に静子さんが旅立ったあとも、両親のことを冷静に考えるには時間がかかった、という。治子さんにとっては長年の宿題だったのだろう。だが、あらためて静子さんの日記を読みなおし、一念発起して書き上げたのが『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』(平成21年・朝日新聞出版刊)だった。『明るい方へ』は、まさに〝ふっきれた〟心境を書きあげ、ようやく二人の間に生まれてよかったと心の底から思えるようになったという。
本年6月に治子さんの『明るい方へ』が静子さんの『斜陽日記』と共に、一冊の文庫本になって筑摩書房から発刊され、話題になっている。
気高く、たくましく生きた太田静子さん。そして静子さんを誇りに思う治子さん。二人の物語が胸を打つ。
太田治子さんの直筆サイン本は、銀座教文館他で入手できる。