かわきたながまさ
明治36 年東京に生れる。大正10 年中国に渡り北京大学に学び、その後ドイツに留学。帰国直後の昭和3 年、東洋と西洋の和合を願い「東和商事」を設立し、ヨーロッパ映画を日本に紹介する仕事を始めた。翌年、同社の社員だった竹内かしこと結婚、夫婦で力を合わせて『自由を我等に』『巴里祭』『会議は踊る』『望郷』『民族の祭典』など、数々の映画史上不朽の名作を輸入・配給した。昭和12 年には日本初の国際合作映画となるドイツとの合作映画『新しき土』を制作。昭和26 年、社名を「東和映画」と変え外国映画の輸入を再開。同年、ヴェネチア映画祭に黒澤明監督の『羅生門』出品に協力、その後も日本映画の国際映画祭への出品に尽力し、日本映画を世界に知らしめた。東和映画時代には『天井棧敷の人々』『第三の男』『禁じられた遊び』『チャップリンの独裁者』などを輸入した。昭和50 年、社名を東宝東和株式会社と改称。夫人とともに海外の映画祭に出席し、国際的映画人として知られた。昭和39 年藍綬褒章、昭和48 年勲二等瑞宝章、フランスからシュバリエ・ド・ラ・レジオン・ドヌール勲章、イタリアからコメンダトーレ勲章を受ける。昭和56年5月24日、78 歳で死去。正四位に叙せられた。
かわきたかしこ
明治41 年生まれ、横浜に育つ。横浜フェリス女学院研究科卒業後、東和商事にタイピスト兼社長秘書として入社、同年、同社の創立一周年記念日に社長の川喜多長政と結婚。昭和7 年に初めて長政の映画買い付けのヨーロッパ旅行に同行して以来毎年のように夫婦揃ってヨーロッパに出かけ名作の選択に当たった。東和映画では副社長を務めた。昭和35 年にフランスから150 本程度の作品を交換しての日仏の古典映画回顧展を行いたいとの申し入れがあったが、当時の日本のライブラリー機関には十数本程度の長編映画しか収められておらず、「フィルム・ライブラリー助成協議会」を組織し、百本余りの作品を集めることに成功。以後、日本映画の名作の収集・保存を私財を投げ打って始め、日本映画の海外普及に尽力した。それは昭和56 年、長政の死後、故人の遺産もつぎ込み財団川喜多記念映画文化財団へと発展した。ベルリン、カンヌ、ヴェネチアなど国際映画祭の審査員を務めること26 回、〝マダム・カワキタ〟の名は世界中の映画人に親しまれている。昭和39 年文部省芸術選奨、昭和49 年紫綬褒章、昭和55 年勲三等瑞宝章、昭和56 年菊池寛賞、イタリアからカバリエレ勲章、フランスからオフィシエとコマンドールの文芸勲章と国家功労賞を受ける。平成5 年7月27日死去。正五位に叙せられた。