散歩は、街を一冊の本のように読むことだ。だから、スマホでの撮影は、読書感想を忘れないための、メモ書きみたいなものなのだ。この「スマホ散歩」を読んでくれた人が、それぞれの街を読書し始めたらとても嬉しい。何か楽しい風景に出会えることを願っている。
第63回 2025年7月28日
モノを捨てられない人がいる。実は、私の母親もそうだった。家中モノが溢れていた。人の居場所にモノが容赦無く侵入している。食事をするテーブルの上にも何やら得体の知れないモノが溢れていて、コップとお皿一枚が何とか置けるスペースしか残っていなかった。
廊下も階段も物置場だ。ベッドの上に本が散乱し、床には積み上げられたダンボール箱が我が物顔で鎮座している。浴室は猫グッズ収納庫と猫の便所になっていた。
母親が泉下の住人になってから、家の整理に取り掛かったのだが、3ヶ月間毎日膨大なゴミと格闘している内に、急に博物館構想を夢見るようになった。
それは、人が一生涯使ったものを全て保存して陳列する展示だ。 たとえば、ティシュで鼻をかんだとしたら、捨てないで保存する。赤ちゃんの時の紙おむつも捨てない。離乳食の空き瓶、粉ミルクの空き缶も捨てない。下着、靴下、靴、洋服、オモチャ、ベビーカー、ベビーベッド、全て保存。
私のように、毎日ペットボトルの水を飲む人は、膨大な空のペットボトルが保存される。
勿論、家も、乗り物も、あらゆる家電も、食器も、新聞、週刊誌、単行本、薬の空き瓶、領収書、レシート、紙袋、紐、テープ、洗剤、調味料、酒などの空き瓶、空き缶。可燃ゴミ、不燃ゴミも保存。家を何度か引越したら、その家丸ごと保存される。車を乗り換えたら、同様に旧車は保存。
だから、かなりの空間が必要になる。そして、誕生から死までのモノを一切廃棄しない事を了承してくれる協力者が必要だ。
私は、母親の部屋を整理している最中、何度もこの広大な博物館をイメージして楽しんだ。人はどれほどのモノと関わり、どれだけのモノを消費し、消去し、忘れ去ってきたか。野球場いっぱいの膨大な量のモノ、100メートルプールを埋め尽くす使い捨てたティッシュを目の当たりにした時、どんな溜息が出るのか体験してみたくなったのである。
はぎわら さくみ エッセイスト、映像作家、演出家、多摩美術大学名誉教授。1946年東京生まれ。祖父は詩人・萩原朔太郎、母は作家・萩原葉子。67年から70年まで、寺山修司主宰の演劇実験室・天井桟敷に在籍。76年「月刊ビックリハウス」創刊、編集長になる。主な著書に『思い出のなかの寺山修司』、『死んだら何を書いてもいいわ 母・萩原葉子との百八十六日』など多数。現在、萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館の特別館長、金沢美術工芸大学客員名誉教授、、前橋市文化活動戦略顧問を務める。 2022年に、版画、写真、アーティストブックなどほぼ全ての作品が世田谷美術館に収蔵された。