第10回【私を映画に連れてって!】 小林武史、三上博史、山口智子、種田陽平……映画『スワロウテイル』のすばらしき仲間たち。そして僕はフジテレビを離れる覚悟ができた

 その日『スワロウテイル』へ邁進しようとフジテレビを離れる覚悟が決まった。
 10月スタートのドラマのオンエア直前、10月1日付で、フジサンケイグループの一つであるポニーキャニオンへ出向になった。これはフジテレビの温情だと思った。通常の人事異動は7月だったので異例の事である。

 1981年の入社からほとんどを「映画部」で過ごし、編成部で少し「ドラマ」を学習させてもらい、14年と半年が過ぎていた。
 ここからは、スピードアップできた。なぜなら『スワロウテイル』を製作します! のお墨付きをもらって、出向したからだ。ビデオ会社でもあり「視聴率」獲得から「ビデオ」売り上げへと目標も変わった。
 幸いに「ビデオは売れそう」とのことで、殆どの製作資金は、烏龍舎とポニーキャニオンで調達できることになった。
 師匠筋の原正人さん(当時:ヘラルド・エース社長)に相談に行き『Love Letter』と同様にヘラルドグループが配給もしてくれることになった。有難かった。当時のフジテレビはじめ、周りでこの映画を5億円近くかけてリクープ出来ると言ってくれた人はほとんど居なかった。ブッキング(劇場)にも苦労され、70館(スクリーン)程度しか上映出来なかった。この館数で興収10億円を越えるのは至難の業だ。振り返るとチャレンジングな企画だ。内容は一言で言い表せない。

〝バブル崩壊後の日本に、命がけで来たアジアの難民たちが不法滞在の中で……〟ヒットしそうにないフレーズ。
 キャスティングも混迷した。既に10月ではあったが、クランクインを4か月後の2月の後半に決めた。

▲『スワロウテイル』の台湾での公開直前に、台北キャンペーンに出向いた岩井俊二監督(左から2番目)と筆者(中央)。写真左端はアソシエイトプロデューサーの久保田修氏。この台北訪問が、後にエドワード・ヤン監督の2000年公開の『ヤンヤン夏の想い出』に繋がっていく。新たな縁の始まりである。

 アジア中をロケハン、上海、台湾、マレーシアなど転々として、一旦、撮影のメインは香港に落ち着いた。第一希望は上海だったが当時の中国ラテ総局(脚本や撮影の審査・許諾)からは、けんもほろろに不許可になった。当然の内容ではあるが。
 香港は大きな問題があった。無国籍感の街(Yen Townと名付けたが)の感じを出したいのに、どこの風景を切り取っても香港とわかる看板だらけである。当時の上海の裏通りの風景とはかけ離れていた。
 1月になり不吉な電話が香港からあり「全員帰国します」と。多くのスタッフが2月のクランクインを目指していたが、この段階で帰国とは……。成人の日(当時は1/15)辺りだっただろうか。
 理由は風景だけでなく、金銭的な問題や、現地スタッフとのコミュニケーションギャップのことなどもあったように記憶している。
 キャスティングも難しかった。映画本編の言語は中国語メインで、英語、日本語が飛び交う。殆どが中国(華)人の設定である。
 岩井監督は基本的に中国人俳優を望んだ。当然ともいえるが、その頃、日本でのスター俳優と言えば、金城武ぐらいだ。自分の力不足もあるが、なかなか厳しかった。

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