今でもスタジオ入口に『七人の侍』と『ゴジラ』の壁画を掲げる東宝。〝明るく楽しいみんなの東宝〟を標榜し、都会的で洗練されたカラーを持つこの映画会社は、プロデューサー・システムによる映画作りを行っていた。スター・システムを採る他社は多くの人気俳優を抱えていたが、東宝にもそれに劣らぬ、個性豊かな役者たちが揃っていた。これにより東宝は、サラリーマン喜劇、文芸作品から時代劇、アクション、戦争もの、怪獣・特撮もの、青春映画に至る様々なジャンルに対応できたのだ。本連載では新たな視点から、東宝のスクリーンを彩ったスタアたちの魅力に迫る。

1935年、日活多摩川撮影所で女優としてのキャリアをスタートさせた原節子。55年生まれの筆者は、当然ながらその初期作品をリアルタイムでは見ていない。それでも実家が東宝映画封切館の株主を務めていた関係で、『日本誕生』(59)から62年の映画界からのフェードアウトまでの三年間、‶伝説の女優〟となる前の原節子のご尊顔をスクリーンで拝めたのは誠に幸運なことであった(※1)。

『日本誕生』では天照大神に扮し、まさに太陽のごとき神々しさ(本人は「口をつぐんでツンとしているだけ」の「つまらない」役と言うが)で筆者の眼を銀幕に釘付けにし、同じく稲垣浩監督によるオールスター時代劇『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(62)では大石りくを演じ、役どころと同じように映画界から静かに去って行った原節子。
正式に引退宣言をしなかったのは、マスコミから散々「色気のない大根女優」と揶揄されたことへの意趣返しだったのか、それとも「会心作がない」と常々語っていたとおり、元から女優業に執着がなかったからなのか……(※2)。

日本映画史上、「最もスターらしい女優」と言われた原節子。その理由には、なんと言っても日本映画の巨匠・名匠と呼ばれる監督作品への出演機会の多さが挙げられよう。
実際、原が出演した作品の監督には、山中貞雄、内田吐夢、伊丹万作、山本薩夫、豊田四郎、山本嘉次郎、島津保次郎、衣笠貞之助、今井正、マキノ雅弘、成瀬巳喜男、黒澤明、吉村公三郎、木下惠介、千葉泰樹、稲垣浩、そして小津安二郎と、錚々たる顔ぶれが揃う。
他にも、戦前だと義兄の熊谷久虎のほか、阿部豊、渡辺邦男、石田民三に伏水修。戦後では久松静児、谷口千吉、川島雄三に堀川弘通と、日本映画の歴史にその名を刻む監督ばかり。組んでいないのは溝口健二、伊藤大輔に市川崑くらいで、原節子はまさに〝名匠・巨匠たちから愛されたスター〟だったことになる。