
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
昨年末あたりからのフジテレビへの風当たりの強さは、この40数年間、一度も経験したことのないほどの衝撃である。
思えば、1980年10月2日。大学4年生の就活で初めて訪れた河田町のフジテレビ。当時の視聴率は民放5局中、4位前後。当時の浅野賢澄社長は郵政省(現総務省)からの通称、天下り。この年、ニッポン放送からフジテレビに副社長で転じた鹿内春雄氏は若干35歳。鹿内家は創業時から特別である。面接時もほとんど鹿内氏としか会話をした記憶がない。
この年の1つの出来事が1年後からの飛躍、視聴率3冠王への布石となる。
1971年の制作局廃止とともに、ドラマやバラエティ番組はすべて外部委託していた。それを1980年、一気に制作局を局内に復活(その後編成局に編成部や制作部体制に)、これを機会に「オレたちひょうきん族」(1981~1989)など新しい番組が続々と誕生する。
入社してすぐに、各番組での研修。制作部に久々に戻った横澤彪プロデューサーの元、新入社員は会議にも出席した。番組タイトル案などの議論があり「われらひょうきん隊」などの中から「オレたちひょうきん族」となった。横澤プロデューサーとタクシーで同乗した際「振り返れば(最下位の)東京12チャンネル(現テレビ東京)だよ。新しいことやるしかないし、底だから上がるしかないよ」というような会話があり、「何でもありか」と思ったものである。
鹿内改革は目覚ましく、「今時、ゴールデンタイムで15分刻みで番組やってる局なんか無いだろ」と開局以来の人気番組(当時はすでに1桁の視聴率)だった「スター千一夜」(もう一つの15分番組は「クイズグランプリ」)の終了を画策。営業としては開局以来、旭化成グループの1社提供であり、重要なスポンサーである。
その時、営業部長から編成局長に抜擢されたのが日枝久氏である。
ここからは鹿内&日枝の二人三脚とも言える改革が始まる。