今回のフジテレビ騒動の矢面に立っているのは、良い時のフジテレビを経験してきた役員などのメンバーである。
過去には芸能事務所、特に旧ジャニーズ事務所などとの仕事関係は可笑しいことがたくさんあり、反省すべき点は多い。ジャニーズのタレントを中心にキャストが決められ、主題歌もそのタレントが歌うことが当たり前のようになっていった。人気に頼り過ぎ、まるで枠ごと乗っ取られている気もした。
それでも「君の瞳をタイホする!」(1988)から始まる〝月9ドラマ〟等もある時までは、脚本の登場人物に相応しい俳優、一番良いと思う主題歌を真剣に追い求めていた。新しいことに貪欲だった。
ただ、昨今言われている「上納文化」などは聞いたことも無く、それが企業風土の温床になっているということも無いと感じている。あったとすれば、事務所やタレントに対する過度の〝忖度〟であろう。これは直ちにリセットされるべきだろう。
もちろん、個々の行動に関しては、テレビ局特有の「非常識」と思われる点があることは否定しない。
ぼくは映画を中心に40数年間フジテレビに関わってきた。ここに記した『瀬戸内少年野球団』のようなことは稀有だが、元々、フジテレビイズムはそこにあった気がする。
クリエイティブは年齢に関係ない。それを良い形で具現化するには勿論、それなりの経験者は必要である。フジテレビは1980年の「改革」に立ち返り、新たなチャレンジャーとして、再起してほしいと願う。ある意味ではゼロスタートになるかもしれない。
「楽しくなければテレビじゃない」から「愛がなければフジテレビじゃない」くらい思い切った志を掲げて。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。