『ナースコール』(1993)も、当時、フジテレビでの製作が出来ない中で誕生した映画だ。『病院へ行こう』(1991/滝田洋二郎監督)が、ぼくの東京女子医科大学病院の入院体験物語なら、『ナースコール』は千葉がんセンター入院時の看護師物語として『病は気から 病院へ行こう2』の役割を当初持っていた。
東京女子医大病院の整形外科に長く入院していたが、多くの患者の中で自分だけが「がん患者」であることの違和感を抱いていた。皆は入院時が最悪の状態で、交通事故なら回復して、退院していく。こちらは、そうはいかず、足を切ったり、抗がん剤を打ったりと……。1作目の映画が公開され、<がんセンター>に転院を考えるようになった。当時、東京女子医大の隣がフジテレビで、病気と仕事の連立? としては好都合だったのだが、「癌」に関してもう少し知りたくなったのだと思う。患者としてだが。執刀医も千葉がんセンターから来てくれていた外科医だったこともあるかもしれない。女子医大と言っても女医は少数派である。
もう一つの理由は、石原裕次郎さんの「がん告知問題」だった。東京女子医大にぼくが入院するちょっと前に(1987年7月17日)、裕次郎さんは告知されないまま慶応病院で亡くなった。ぼくは医者から直接、自分の「がん」に関しては聞いていたが、当時の「がん告知率」は10数パーセントだった。今では不思議なことだが……。
自宅も世田谷から千葉県佐倉市に引っ越し、ほどなく千葉がんセンターに転院した。『病院へ行こう』は患者であった自分が主人公だったが、次はお世話になった看護師さんたちへのエールにもなるような企画を考えていた。もちろん、コメディ映画で。公立病院だったので、差額ベッド代も女子医大と比べると何分の1で個室に入院した。
入院時に、『病院へ行こう』に女医役で主演してもらった薬師丸ひろ子さんには千葉がんセンターで看護師さん主役の企画は書くつもり……というようなことを言っていた気がする。『病院へ行こう』(1990)、『タスマニア物語』(1990)、『きらきらひかる』(1992)と立て続けに一緒に映画をやってきて、彼女の看護師役を観てみたいと思った。もう一人、『波の数だけ抱きしめて』(1991)、『新・同棲時代』(1991)で一緒だった松下由樹さんにも同じようなことを喋った記憶がある。
「個室」なので24時間が自分だけの空間でもあるような気分。もちろん、足の手術も何回かするのだが、気持ちは穏やかだったかもしれない。「骨肉腫」の子供も多くいたが、全員が「がんセンター」の患者であり、ここには「告知問題」は存在しない。10代の患者たちとも仲良くなった。
今も、その時の患者たちとは定期的に会ったりしている。当時、がん細胞が骨から肺に転移して危ない状況だった高校生は、その後、足は失うが、アメリカに留学して、車いすバスケの選手となる(現役パラリンピストとして大活躍し、東京パラリンピックでは日本チームを準優勝に導いた監督になった)。入院当時は、一緒に馬券予想などを毎日のようにやっていた。『ナースコール』では彼をモデルにして、サッカー選手を目指す役を渡部篤郎さんが演じている。
『ナースコール』は自分の時間がたくさんあったこともあり、ほぼシナリオに近いロングバージョンのシノプシスになってしまった。これでは脚本家もシナリオを書くのを躊躇する気持ちもわかる。

もう一つ、個室に入れ替わり遊びに来てくれた中学生の患者の「アイドルの夢」を聞いた時に、違うストーリーが生まれる。その子の「夢」は小泉今日子主演の「病は気から」になり、結局フジテレビの映画としては此方が『病は気から 病院へ行こう2』(1992)となった。こちらは一色伸幸氏が素晴らしいコメディ映画の脚本に仕立て上げてくれた。
そして『ナースコール』は『国会へ行こう!』を映画化してくれた同じプロデューサー陣が製作してくれることになった。またまたぼくは「企画」のペンネームで。
看護師さんの話は、なかなかコメディ要素のストーリーが難しかった。入院中のクリスマスのキャンドルサービスや、身障者スキーイベントなど、看護師に対するリスペクトが高まるとコメディ要素がなくなっていく。患者なら自分の体験で自分の目線で書けるが、看護師の気持ちはなかなかわからない。ふと看護師出身の脚本家を思い出す。
フジテレビでヤングシナリオ大賞というのが毎年あり、何回か審査員をやった時に信本敬子さんの『ハートにブルーのワクチン』(1989)を大賞にした。旭川出身で高等看護学院を卒業して大学病院で看護師として勤務していた経歴を持つ。彼女なら良いシナリオが書ける! その後ドラマ「白線流し」などで活躍したが、残念ながら2021年に癌で亡くなってしまった。
『誘惑者』(1989)で一緒だった長崎俊一さんが監督に決まり、ぼくはフェードアウトの感じになった。
企画が成立したり、しなかったり………。この繰り返しを40年以上やってきたのだが、やはり「縁」だったり、「出会い」だったり、時代とマッチするかしないか、今でも読みづらいことだらけである。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。