
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
「if もしも……」が多すぎて、思い出すことも数知れずの中で、中島らもさんの原作を巡っては、運命的とも言える歪みを経験した。
『変態家族 兄貴の嫁さん』(1984)でデビューした周防正行監督は『ファンシイダンス』(1989)で一般映画へ。ちょうどシネスイッチ銀座で『木村家の人びと』(1988/滝田洋二郎監督)をやり、『病院へ行こう』(1990/同)が全国ヒットになった頃、周防監督と会うことになった。大好きな映画『シコふんじゃった。』(1992)は撮影現場にもお邪魔した。
次回作で『お父さんのバックドロップ』(中島らも:著)の映画化をやろうと話を進めていた。脚本家は、ぼくが審査員もやった第3回フジテレビヤングシナリオ大賞(1989)に応募していた水橋文美江さん。彼女とは映画『新・同棲時代』(1991/原作:柴門ふみ)を一緒にやり、『お父さんのバックドロップ』のシノプシスを依頼した。その後の彼女は、ドラマ「妹よ」(1994/CX)、「みにくいアヒルの子」(1996/CX)から最近では「ホタルノヒカリ」(2007/NTV)「スカーレット」(2019/NHK)、映画も『冷静と情熱のあいだ』(2001)はじめ、今でもヒットメーカーである。
『お父さんのバックドロップ』は児童書でもあり、学研から発売されており、編集担当の了解をもらい、脚本作業を進めていた。ところが、映画用のシノプシスを作成中に事件? が起きた。
学研は『南極物語』(蔵原惟繕監督/1983)の製作パートナーであり、何度も本社に行ったし、知り合いもいた。『象物語』(1980)など映画出資も行っていることは知っていたが、その後「映像部」的な組織が出来たことは知らず、交流もなかった。
此方は出版物の映画化権の話なので編集部担当とは逐一コミュニケーションは取っていた。ある日、その「映像部」で『お父さんのバックドロップ』の映画企画開発をしていることが発覚。編集の担当者も知らなかったという。
学研内の問題であるが、「映像部」は開発を進めているので止めたくないと言う。
正直に周防監督と、水橋文美江さんに言うべく、3人で帝国ホテルのラウンジで会った。周防監督は冷静で、これは何かの縁で、一旦止めるほうが良いということでは云々……と正確には思い出せないが、ここで断念することになった。1993年のある日のことで、2人には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。これはプロデューサー側のミスでもある。きっと面白いコメディ映画が誕生するはずだった……。
原作のある映画化は何かとハードルが待っている。
その後、中島らもさん主宰の劇団<リリパットアーミー>のわかぎえふさんと仲良くなり、大阪生まれの同学年ということもあり、何度も会うことになった。その縁で『お父さんのバックドロップ』の顛末を、らもさんご本人に会って聞いたことがあった。「そんなことがあったことは知らなかった……」と。「直接、オレに話してくれてたら……」とも言われたが、これも運命なのか。結局、学研映像部では『お父さんのバックドロップ』の映画化はならなかった。
