連載

第27回【私を映画に連れてって!】映画女優「薬師丸ひろ子」と「原田知世」との運命的な巡り合い

 原田知世さんとは角川春樹事務所にいた間は面識もなかった。

『私をスキーに連れてって』(1987/馬場康夫監督)のキャスティングで初めてその名前が出たと記憶している。この企画は、映画、というよりマーケティング企画のようなスタートだった。ホイチョイプロダクションの皆さんのスキーに対する愛やこだわりが強いのは理解しつつ、最初はメジャー映画になる気がしなかった。

 それもあったのか、ぼくがそれまで一緒に仕事をしてきた映画人、たとえば編集の冨田功さん。彼とは20本近い映画を一緒にやった恩人である(僕と同世代だが2002年に45歳で亡くなってしまった)。馬場康夫さん自らが初めて監督をやることになり、意識的に周りを映画人で固めたような形になった。キャストもドラマにメインで出ている人よりも映画寄りの俳優をと、そこで出会うのが原田知世さんと三上博史さんである。

 ただ、この1987年の積雪が異常でなければ、この2人の共演はなかった。

 なぜなら1~2月に、本来は撮影を予定していたからである。原田さんは1986年に事務所を辞めたことになっているが、新たな形の事務所で仕事がスタートできるのは1987年4月1日以降に設定されていた。つまり、予定通り1月までに例年のように積雪があれば、撮影は「冬」のはずである。この問題は映画撮影そのものをやるのか、やめるのか延期するのか……の大議論にもなった。3月に撮影開始でも原田さんは参加できない状態だった。しかもスキーシーズンの基本は3~4月までで4月クランクインは無いだろうと……。

 結局、遅れて2月になりやっと雪が降った。急いで準備したが、クランクインは奥志賀で4月に入ってからになり、無事に? 原田知世さんが出演できることになった。降雪が遅れたため、このスケジュールになってしまった、とも考えるし、そのおかげで原田知世さんが参加できることになった……とも言える。これはやはり何かの巡り合わせなのだろう。お陰で、ぼくも初プロデューサー作品で、話題作にもなった。ヒロインの原田さんは役柄もピッタリはまって素敵だった。


▲1987年11月21日公開の、ホイチョイ・プロダクション三部作の第1作『私をスキーに連れてって』。主演の原田知世は83年の『時をかける少女』の主役でスクリーン・デビューし、日本アカデミー賞はじめ各映画祭の新人賞を受賞し、薬師丸ひろ子、渡辺典子とともに〝角川三人娘〟の末っ娘としてアイドル的人気を誇った。三上博史、原田貴和子(知世の実姉)、沖田浩之、布施博、高橋ひとみらに加え田中邦衛も出演している。「サーフ天国、スキー天国」をはじめ、「恋人がサンタクロース」「BLIZZARD」などユーミン(松任谷由実)の曲が挿入歌として使われ、大人気映画となった。80年代のスキーブームを牽引した映画としても語られる。

 

 最初から「遊びの三部作」予定で「スキー」「海」「車」というようなアイデアで、2作目の『彼女が水着にきがえたら』(1989)にも出演してもらった。三上博史さんは1作目でフェードアウトしたものの、オーディションで選んだ織田裕二さんがここからブレイクし、大スターになっていく。

 3作目『波の数だけ抱きしめて』(1991)は「車メイン企画」とは変わってしまったが、恋愛ドラマとしては良い脚本も出来、本来は「原田知世&織田裕二」の予定だった。

▲ホイチョイ・プロダクション三部作の第2作『彼女が水着にきがえたら』が公開されたのは1989年6月10日だった。前作に続き原田知世が主役を務め、相手役には織田裕二が選ばれた。オーディションには江口洋介、吉田栄作、椎名桔平らも参加していたときく。前作のウインタースポーツから、本作ではマリンスポーツがテーマになっている。主題歌はサザンオールスターズ「さよならベイビー」で、挿入歌としても「ミス・ブランニュー・デイ」「C調言葉に御用心」など、サザンの曲が全編を飾っている。企業タイアップも非常に多く、バブル景気絶頂期の作品だった。

  


 馬場監督にとっては「原田知世三部作」でもある。

 ここは残念ながら、プロデューサーのぼくと、事務所とのコミュニケーションの問題で原田さんの出演が出来なくなってしまった。痛恨の極みである。馬場監督にも申し訳なかった。奇しくも最後の打ち合わせは原田さん、マネージャー、そしてぼくの3人で「ORIGAMI」だった。原田さんも複雑な心境だったと察するが理解はしてもらった。

 これも縁だが『波の数だけ抱きしめて』は中山美穂さん主演で、3部作で一番ヒットした。結局「原田知世×三上博史」「原田知世×織田裕二」「中山美穂×織田裕二」と、こちらの意図せぬ形で、3作は違うカップルストーリーになった。ただ、ここでの中山美穂さんとの出会いがなければ『Love Letter』(1995岩井俊二監督)もなかったことを思うと、出会いには感謝である。

 原田さんにはその後『水の旅人 侍KIDS』(1993/大林宣彦監督)にも出演してもらった。

▲1993年7月17日公開の『水の旅人 侍KIDS』。監督は『時をかける少女』『異人たちとの夏』の大林宣彦で、脚本は原作者の末谷真澄が手がけている。音楽を久石譲が担当し演奏はロンドン交響楽団によるスケールの大きな音楽だった。主題歌「あなたなら…」を中山美穂が歌った。主役の山﨑努のほか、当時15歳の六代目尾上丑之助時代の八代目尾上菊五郎、風吹ジュン、岸部一徳、そして原田知世も出演している。

 
 
  彼女は映画、テレビドラマ、そして歌手としても大活躍中である。

  それでも僕の中では、やはり「映画女優」である。






かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。


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