1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
これまでぼくが関わり公開された映画について書いてきたが、今回は成立していない映画に関して記してみようと思う。
映画が完成、公開されていないのに書くことは躊躇もあるが、1人の映画監督の執念や美学を自分なりに振り返りながら、未来に希望をつなげたいと……。
長谷川和彦監督作品との出会いは大学に入学して、ほどない頃だっただろうか。タイトルは『青春の殺人者』(1976)。原作:中上健次、主演:水谷豊、原田美枝子。千葉で起きた親殺し事件をベースにした短編小説の映画化だった。両親を殺してしまった青年と恋人の話。ATG作品でキネマ旬報1位。劇場で観た強烈な印象がいまでも甦る。「これこそ映画だ!」と。
二作目は『太陽を盗んだ男』(1979)。主演:沢田研二、菅原文太。中学校の理科教師が自宅で作った原子爆弾を武器に、警察に対してプロ野球のテレビ中継を試合終了まで見せるよう要求。当時の社会背景の中での、主人公の行動に思わず喝采を送ったりした。大好きな映画だ。
この時は、普通の大学生が映画を観ていただけなのだが、2年後にフジテレビに入ることになり、いきなり映画『南極物語』(1983)のスタッフになった。
「いつかは長谷川和彦監督の創った2本の映画のような作品に出合えたら……」
監督との出会いは1994年。岩井俊二監督が「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」(1993年フジテレビ放送)で第34回日本映画監督協会新人賞を受賞した時だった。テレビドラマなのに映画監督新人賞は初めてで、その時の監督協会の理事長は大島渚監督、選考委員長(理事)が長谷川和彦監督だった。
大島理事長、長谷川委員長から挨拶があり、山口智子さんが花束贈呈をしたりして、なぜかぼくが挨拶をする番になった。作品にはタッチしていない僕がその場で挨拶をすることになったのは『Love Letter』(1995)という企画を、この秋(1994年)に長編映画デビュー作としてやる予定です……というのが理由だったのであろう。
初めて長谷川監督と会話した。
あれから30年以上・・どれだけの時間を共有し、何本の企画のやりとりをしてきたであろう。