第2回 成城を愛した〝世界の三船〟Vol.1


文:高田 雅彦


1932年、東宝の前身であるP.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。

 ‶世界のミフネ〟こと三船敏郎が、真の意味で、その称号を我が物としたのは2016年の「ハリウッド殿堂入り」のときのこと。世界的俳優としてはいささか遅過ぎの感もあったが、三船はここで純粋な日本人俳優として初めて、ハリウッド大通りの‶ウォーク・オブ・フェーム〟にその名を刻む(註1)。

TOSHIRO MIFUNEの星型プレート (2016年11月16日筆者撮影)

 左の写真は、式典に同席する機会を得た筆者の「特写」。星型プレート脇には『七人の侍』(54年)の菊千代の雄姿が掲げられているが、もし三船が『スター・ウォーズ』のオファー(註2)を受けていたとしたら、ここにはオビ=ワン・ケノービ(もしくはダース・ベイダー)の顔があり、今頃は‶世界〟どころか〝銀河系のミフネ〟と呼ばれていたことだろう。

 これが本名である三船敏郎は、1920年、中国山東省青島(チンタオ)の生まれ。秋田出身の父・徳造が写真館を開業して成功するも、国際情勢により三船が5歳の時に一家は大連(だいれん)へ移住。ここでの店名が「スター写真館」だったことは、誠に運命的な偶然と言わざるを得ない。

 20歳で徴兵された三船は、陸軍航空教育隊に配属。家業での経験を買われて、航空写真の任務を担ったことが自らの運命を大きく変える。足かけ7年に亘る軍隊生活を、前線にも特攻隊にも送られることなく上等兵として終えた三船は、復員後、先輩兵のカメラマン・大山年治を頼って東宝に履歴書を送る。これも、戦地で鍛えた〈撮影技術〉を生かす仕事に就くためであった。

 ところが、復員者が増えた撮影部に欠員はなく、その履歴書は第1回目の俳優募集「東宝ニューフェイス」へと回されていく。半ば自棄気味でこの試験を受けてみると、結果は意外にも〝補欠〟合格(註3)。仕方なく成城の俳優養成学校に通うこととなった三船は、初監督作の主演男優を探していた谷口千吉に、小田急線内で見出されるという幸運(本人にとっては不運?)に恵まれる。

伝説のニューフェイス面接試験の模様(写真提供:三船プロダクション)

「面(ツラ)で飯を食う」ことを嫌悪していたにもかかわらず、三船は「背広を一着プレゼントする」との谷口の甘言に陥落。『銀嶺の果て』(47年)のギャング役で、俳優としての第一歩を踏み出す。出番が来ても「俺はいいですよ」などと言って尻込みし、撮影機材の運搬のほうに注力したのは、〈本当はカメラの仕事がしたい〉という本音の表れだったに違いない。

 このとき、ロケ地の白馬で仕事を共にしたのが、当時はペーペーの助監督だった岡本喜八である。クルーが泊っていたのが成城学園の山小屋(註4)というのも実に因縁めいているが、その後、岡本と送った成城の‶素人下宿〟での共同生活を経て、三船は生涯、成城に住み続けることとなる。 

 ちなみに、この下宿(家主はT氏)で三船が仕立てたのが、軍隊毛布(目撃した岡本によれば、アメ横で仕入れたもの)製のコートとズボン。この上着は、やはり黒澤脚本による谷口監督作『吹けよ春風』(53年)で、気の好いタクシー運転手役の三船が自ら着用しており、長男の史郎さんによれば、これが数ある出演作の中でも最も素の父親(三船)に近い役だとか。

三船敏郎自製のコート(三船プロダクション所蔵)

 それ以前から、やはり成城北口の「ブリキ屋」で谷口と下宿生活を送っていたのが黒澤明だ。『銀嶺の果て』の映画の編集を手伝っていた黒澤が、フィルムの中で躍動する三船に惚れ込み、自作『酔いどれ天使』(48年、これまたヤクザ役)に起用したことで、三船の‶悪役〟人気は急騰。全身から放たれる凄みや野獣性、その鋭い眼光は戦争体験と無縁であるはずもなく、そういう意味で三船は、まさに〝戦争が生んだスター〟と呼ぶべき存在であった。

 こうして俳優を続けざるを得なくなった三船は、『羅生門』(50)出演を前にして、ニューフェイスの同期生・吉峰幸子と結婚。初めて自宅を構えた地は、なんと「成城町777番」であった。(この項続く)

三船敏郎が持った最初の自邸(写真提供:三船プロダクシ)

(註1)殿堂入りした日本人俳優は、早川雪洲とマコ岩松という米国で活動した二人のみ(例外はゴジラ!)。三船の星型プレートは、チャイニーズ・シアターの斜向かいという、誰よりも条件の良い場所にある。

(註2)『SW』のオファーを断ったのは、オビ=ワンを悪役と誤解した三船のLAエージェント、高(たか)美以子氏。三船は常々、「俺は悪役はやらないからな」と高氏に念押ししていたという。

(註3)空きが出たら撮影部に引っ張るべく、三船を補欠合格に導いたのはカメラマンの山田一夫。このときの恩義から、三船はのちに山田を自身のプロダクションに迎えている。

(注4)舞台となった山小屋「ヒュッテ・タニサワ」(谷口と黒澤の合体ネーミング!)は、谷口が在籍した早稲田大のヒュッテで撮影された。


たかだ まさひこ
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝封切館「山形宝塚劇場」の株主だったことから、幼少時より東宝映画に親しむ。黒澤映画、クレージー映画には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。大学は東宝撮影所に近い成城大を選択、卒業後は成城学園に勤務しながら、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画文筆を中心に活動。『七人の侍』など、日本映画のテーマ曲を新録したCD『風姿〜忘れがたき男たち』(ラッツパック・レコード:5月発売)では作品・楽曲紹介を担当。近著として、『今だから! 植木等』(今夏発刊予定)を準備中。

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