第6回【成城シネマトリビア】  なぜ成城は映画人の街に?

植村邸。P.C.L.の人間がたむろする‶サロン〟的な役割も果たした。右は植村の愛車(泰子さんの子、植村の孫に当たる中江和彦氏提供)

 
 社長の植村は、自宅で開催する勉強会兼パーティーには俳優たちだけでなく近所の住人も招待、成城学園の生徒たちには、正課授業の一環として撮影所見学の時間を設けるなど、開かれた会社経営に努めた人であった。また、P.C.L.移転当時、成城駅に南口はまだなく、俳優やスタッフたちは、都度、踏切を渡って大回りで撮影所に通う難儀を強いられていた。これを気の毒に思った植村が小田急と交渉。ところが、当時の小田急に資金的余裕はなく、交渉は不調に。すると、小田急の一日の収益が四千円の時代に、植村は個人で三千円を出資、商店街や成城学園の協力も得て、南側に下りる階段を自力で作ってしまう。こうして、南口の商店街は発展を遂げ、映画人への偏見やアレルギーがあった住人たちも、次第に彼らと馴染み、近隣道路や自宅でのロケ撮影にも大いに理解を示すようになったという。

 そんな時代に新人助監督として入社したのが、のちに‶世界のクロサワ〟となる黒澤明である。応募に当たり撮影所の写真(椰子の木が写る!:第1回参照)を見た黒澤が、ここは千葉のどこかと思ったという逸話もなかなかに微笑ましいものがあるが、同じ山本嘉次郎門下の谷口千吉と二人して下宿生活を送ったのは、成城駅北口商店街にあった「ブリキ屋」の一室であった――(註7)。

(註1)写真現像の研究に砧村の水質や空気が適していたという理由もあったろうが、植村は、現在の成城消防署の真向かいを自宅、その北側の一角(現在では「コモレビ成城」という名の集合住宅となる)を研究所施設に定める。
(註2)‶初代〟ゴジラの着ぐるみは、上記のP.C.L.施設(のちの東宝技術研究所)で造られているので、ゴジラは成城生まれ、ということになる。
(註3)宮内庁管轄の御料地。成城学園の移転候補地のひとつでもあった。P.C.L.時代劇の撮影用地となり、黒澤明が戦中(1945年夏)に撮った『虎の尾を踏む男達』(公開は1952年)の唯一のロケ撮影もここで行われた。
(註4)戦意高揚映画を手掛けたことから、植村は戦後、公職追放の身となり、邸宅は接収。のちにこの家には詩人の西條八十が住み、ここで死去する。
(註5)もう一人のP.C.L.重役。のちに井深大(増谷邸に下宿経験あり)、盛田昭夫とソニーの元となる東京通信工業を設立。植村とソニーPCLの元となる会社も創っている。
(註6)黒澤明が『影武者』の頃に居住した家(成城二丁目21番)は、かつて高峰が借りていた家(B氏所有)から徒歩わずか1分のところにあった。
(註7)「黒澤明研究会会報No.19」に谷口が残した証言(銭湯に至る道程)から、当ブリキ屋は赤マルをつけた位置にあったと推測される。

成城自治会発行『成城のまち』所収「昭和20年の頃の街」より

たかだ まさひこ
1955年1月、山形市生まれ.生家が東宝映画封切館「山形宝塚劇場」の株主だったことから、幼少時より東宝作品に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。大学は東宝撮影所にも程近い成城大を選択。卒業後は成城学園に勤務しながら、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆を中心に活動。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)がある。近著として、植木等の偉業を称える『今だから! 植木等』を準備中(今秋刊行予定)。

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