第2回 仁義ある男たちが去り、仁義なき男たちが登場

『昭和残俠伝』シリーズは、『網走番外地』『日本俠客伝』と並ぶ高倉健のヒットシリーズで、1965年から72年にかけて9本が作られた。すでに『網走番外地』シリーズで人気が沸騰していた健さんだったが、本シリーズで名実ともに任俠映画スターの地位を不動のものにしたと言える。唐獅子牡丹の刺青は健さんのトレードマークとなった。斬り込みに行く健さんが登場すると「待ってました! 健さんッ!」と観客たちから声がかかり、拍手喝采が起こった。ヒットの要素は多田氏の本文に詳しい。当時、日曜ともなれば1万人の観客が劇場につめかけたと言う。70年に公開された『昭和残俠伝 死んで貰います』はシリーズ7作目で、シリーズ最高傑作との呼び声も高い。無骨な健さんと、陰で支える池部良の色気という、任俠の世界に生きる二人のストイックな関係も観客を酔わせた。©東映

 だが、全共闘世代に支持され、一時は絶大な人気を誇った任俠映画も、学生運動の衰退に伴い、その人気に翳りが見え始めてきていた。映画界全体で言えば、スターシステムの崩壊により、俳優たちも映画会社の所属から、作品ごとの契約へと切り替わりが進み、五社協定の終焉のときであった。私が東映に入社したのは、映画界全体が大きく変貌を遂げだした時代でもあったのだ。

 私が入社して最初に関わった映画は、「任俠路線」の延長上にある健さんの『望郷子守唄』だった。東宝の星由里子との共演だった。同じ頃、日活を退社してフリーになっていた梶芽衣子の東映初出演作『銀蝶渡り鳥』も担当した。梶芽衣子はその後『女囚さそり』シリーズをヒットさせることになる。

 

 それまでセールスたちは「鶴田もの」「高倉もの」「藤純子もの」「文太もの」「中島貞夫もの」「山下耕作もの」という具合に、俳優と監督の名前でプログラムを組みセールスしていた。試写を観て作品の出来の良し悪しを確認することもなく、東映というブランドだけで映画が売れていたのだ。安定した興行成績を得られる人気シリーズだから、監督と俳優の名前だけでセールスが成立していた。それが次第に、健さんや鶴田浩二のイメージで作った映画が思ったほどの数字を稼げなくなっていた。世間では、『関東緋桜一家』での藤純子の引退と共に、東映任俠映画は終わっていたのだ。ポスト藤純子としていろんな女優たちをデビューさせたが成功にはいたらなかった。同時期に、梶芽衣子や渡哲也、小林旭など、ロマンポルノの製作に入った日活を離れた俳優たちが東映のスクリーンに登場するようになるが、やはり時代は次に移っていた。少々のうろたえはあるものの、東映には底力があった。そこで『仁義なき戦い』が登場する。

1968年の『緋牡丹博徒』からの人気シリーズで、作品の質も高いとの評価を受けていたが、藤純子の女優引退により、72年に公開された8作目の『緋牡丹博徒 仁義通します』が、シリーズの最終作となった。ヒットの最大の理由は、何と言っても藤純子の匂い立つような美しさと、キリッとした啖呵の小気味よさ、そして男舞いのような殺陣の華やかさで、藤純子という女優の中の稀有な才能が引き出されたことによる。主題歌にも歌われるように、娘盛りを渡世に賭けて、義理と人情のしがらみの中で、女としての慕情を抑え込み命を張って悪にぶつかるお竜さんは、時代のマドンナであり、大衆に愛された。耐えて忍んだ女の情念が一気にほとばしるとき、藤純子の艶やかさも、加藤泰や山下耕作といった監督の耽美的な演出の中で頂点に達していた。藤純子は、『緋牡丹博徒』シリーズにより71年にキネマ旬報主演女優賞に輝き、同年の毎日映画コンクールではシリーズ第7作『緋牡丹博徒 お命戴きます』で主演女優賞を獲得している。©東映

 梶芽衣子主演『女囚さそり』シリーズは第1作の試写を観た瞬間に、この作品は当たると直感した。入社間もない若造の直感など当てにならないというのが周りの反応だった。特にそれまでの任俠映画に携わった人たちの反応は「なんや、こんな映画」と冷ややかだったが、22歳の若者にとっては鮮烈で新鮮だった。ところが周囲の意に反して当たってしまった。『仁義なき戦い』にも同様の鮮烈さを感じた。

 72年の任侠映画の終焉と入れ替わるように、73年には実録路線と言われる『仁義なき戦い』シリーズが製作され大ヒットする。73年上半期邦画動員ベストテンのうち、東映は5作品を占めており、『仁義なき戦い』シリーズも2作品が入っている。シリーズの大ヒットにより、73年の配給収入で、他の大手の映画会社に大きく差をつけた。

 任俠路線が下火になったと感じたら次は実録路線と、東映というのは、時代の風向きを読み取り、時代時代の社会の仕組みを見極め、その風向きに合わせて映画を製作することが得意だったと言えるかもしれない。仁義の世界に生きた男立ちを描いた任俠映画を真っ向から否定するような正反対の仁義なき男たちを描くという、東映は自らを否定することから、時代との接点をいち早く見出してきたのかもしれない。後に述べるテレビとの付き合い方に関しても、時代によってまるで正反対のスタイルでテレビと接してきたことからも、そこに、ある意味東映の処世術があったのかもしれない。
 次回は、実録映画時代、そしてさらに次の時代へと、話を進めることにしよう。

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