映画は死なず 実録的東映残俠伝
─五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀─
文=多田 憲之(東映株式会社 代表取締役会長)
ただ のりゆき
1949年北海道生まれ。72年中央大学法学部卒業、同年4月東映株式会社入社、北海道支社に赴任。97年北海道支社長就任。28年間の北海道勤務を経て、2000年に岡田裕介氏に乞われて東京勤務、映画宣伝部長として着任。14年には5代目として代表取締役社長に就任し20年の退任と同時に取締役相談役就任。21年6月、現職の代表取締役会長に就く。
企画協力&写真・画像提供:東映株式会社
『柳生一族の陰謀』の公開前年の1977年には、オフィス・アカデミーの西崎義展氏と組んだ『劇場版宇宙戦艦ヤマト』シリーズ、角川事務所の角川春樹氏と組んでの、角川春樹事務所第2弾となる『人間の証明』の公開と、東映が初めて他社とタッグを組んだ作品がいずれも大ヒットとなる。
27歳くらいの頃、肝臓を壊して3か月間入院したことがある。入院していたときに何もすることがなく時間を持て余しているので、テレビくらいしか楽しみはなかった。その頃、夕方6時くらいから毎日帯で放送していたのが「宇宙戦艦ヤマト」の再放送だった。これが面白い。初めてアニメにはまってしまった。エンディングで「地球滅亡まで〇日」なんていうのが、出てくる。「宇宙戦艦ヤマト」が最初にテレビで放送されたときは、視聴率が悪かった。「エヴァンゲリオン」と同じパターンである。視聴率が悪くて打ち切りになっていた。映画が公開されて人気に火がついたパターンだと思う。当時、北海道支社で「宇宙戦艦ヤマト」のことを知っていたのは、私だけだったと思う。なにせ、入院中、毎日見ていたわけだから。まあ、私が一番若かったということもある。
『宇宙戦艦ヤマト』は東映洋画部の配給で公開されることになった。テレビでは商業的に失敗に終わった作品だったので、大手映画会社からは配給を断られたオフィス・アカデミーの西崎義展氏が岡田茂東映社長を頼り、東映で配給することを決めた。都内での興行はやはり岡田が社長を務めていた東急レクリエーション、地方は、東急レクリエーションは興行会社で配給ができないため、東映洋画部の劇場チェーンでの配給となった。東映洋画部は、洋画配給と宣伝、洋画系列劇場に流す邦画の宣伝も行っていた。
ある日、洋画部の次長から、今度『宇宙戦艦ヤマト』というのをやるんだよ、と言われて、「知ってますよ、あれ面白いですよ」と言ったら、「そうか、面白いか」と次長も前のめりになって、「どうしたらいい」って訊いてくるので、「私が売りにいきますよ」ということで、本社で決めていた映画館があったが、あまりにもキャパが小さかったので、須貝興行のシネマ5に切り替えた。そうこうするうち、公開予定だったアメリカ映画『ブラックサンデー』が、テロの描写が生々しいということで、上映中止という事態が発生した。すると、『ブラックサンデー』の上映を予定していた映画館が、上映させてくれと『宇宙戦艦ヤマト』に殺到した。地方での上映館が増えたのは、上映中止事件で穴が空いた映画館が存在したことも一因だった。当初は札幌市内の2館での上映予定だったが、函館、旭川、室蘭で拡大公開されることになった。これを皮切りに地方のブッキングが進み、全国ロードショーが決定した。
『宇宙戦艦ヤマト』の公開は1977年8月6日だったが、北海道では東京公開から1週間遅れの8月13日。東京での公開を翌日に控えた8月5日夜、セル画プレゼントを目当てにしたファンが劇場に行列を作った。日本映画で初めて徹夜組が出たのは『ヤマト劇場版』第1作だった。行列したファンの数は2万人以上。『宇宙戦艦ヤマト』は最終的に9億円の配給収入、21億円の興行収入をあげた。観客動員数は225万人以上だった。配給した東映洋画の飛躍する原動力となった作品である。そして〝まんが映画〟から〝アニメ〟に変わるエポックメーキングな映画の出現だった。特典付きの前売券や、セル画プレゼント、初日舞台挨拶などの手法を使うはしりとなった作品であった。宣伝の功績も大きかったのである。子供が観るまんが映画が青少年が観るアニメになった。
西崎氏はもともと音楽畑の人で、〝ヤマト〟の宣伝に当たっては、ラジオの「オールナイトニッポン」などもフル活用していた。日本におけるメディアミックスとしてもはしりであった。行列ができたのもコンサート会場で観客が並ぶイメージだったのだろう。78年公開の第2弾『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は前作を大幅に上回る爆発的な人気で21億以上の配収をあげ、80年夏公開の第3弾『ヤマトよ永遠に』も含めて1000万人の観客動員数を記録することになる。