子供から老人まで、ほとんどの人々が携帯電話を普通に持つようになった今の時代、メロドラマが成立しにくくなったのではないだろうか。メロドラマといえば、恋人たちの間に立ちはだかる数々の障害、そしてすれ違いである。古い話で恐縮だが、岸惠子と佐田啓二が主演した映画『君の名は』はその典型だろう。野口五郎のヒット曲「私鉄沿線」を聴くと、〝昭和は遠くなりにけり〟という感慨が胸に押し寄せるのだ。
改札口で、電車から降りてくる〝君〟を探すのが好きだった〝僕〟
もしかしたら、あのころの想い出を訪ねて〝君〟がこの町に来るかもしれないと、駅の伝言板に〝君〟のことを書いて帰る〝僕〟
僕たちの愛は終わりでしょうか、とわからないままこの町を越せず〝君〟の帰りを待つ〝僕〟
携帯も普及していない昭和ならではの叙情的な詩情で、まるで日記に毎日〝君〟のことを記しているような〝僕〟の純情が切ない。いつもコーヒーを飲んでいた店で、君はどうしているのかと訊かれるのも、また切ない。
1974年に、野口五郎15枚目のシングルとしてリリースされた「私鉄沿線」。作詞は「夜明けのスキャット」「翼をください」「瀬戸の花嫁」「恋する夏の日」など多くのヒット曲を手がけた山上路夫、作曲は野口五郎の実兄・佐藤寛が手がけている。そして編曲は筒美京平である。72年から73年ころには上村一夫の漫画「同棲時代」が人気を呼び、大信田礼子が歌った「同棲時代」(作曲は都倉俊一)がヒットし、テレビドラマ(沢田研二と梶芽衣子主演)や映画(由美かおる主演、相手役はヒット曲「ポーリュシカ・ポーレ」で知られる仲雅美)も話題になり、〝同棲〟が流行のように取り上げられたりもしたが、「私鉄沿線」の〝君〟と〝僕〟はそれとはまた違う。
「私鉄沿線」は前年の「甘い生活」に次ぐ、野口五郎2番目の大ヒット曲で、オリコンチャートでも3週連続1位を獲得している。日本レコード大賞歌唱賞、日本歌謡大賞放送音楽賞、日本有線大賞グランプリなど、多くの賞に輝いており、野口五郎の代表曲と言えるだろう。66年に当時の人気番組だった「日清ちびっこのどじまん」(司会は大村崑だった!)で荒木一郎の「今夜は踊ろう」を歌い優勝していて、小学生だった僕もその番組を見ており、同じ小学生とは思えない、なんて歌のうまい子だろうと思った記憶がある。その後、本格的に歌手を目指し71年、15歳のとき「博多みれん」で演歌歌手としてデビューしたが、全くと言えるほど振るわなかった。ポップス路線に転向してリリースした2曲目の「青いリンゴ」(作詞・橋本淳、作曲・筒美京平)がスマッシュ・ヒット。翌72年には、16歳10か月という当時としては最年少でNHK紅白歌合戦に初出場し「めぐり逢う青春」を披露した。この年には、ソロとなった沢田研二も初出場を果たしている。後に〝新御三家〟と呼ばれる55年生まれの西城秀樹と郷ひろみとは学年は一緒だが、野口は56年の早生まれである。郷の紅白初出場は73年で、74年の西城の初出場によって、〝新御三家〟がそろって紅白のステージに立った。
野口五郎の歌がオリコン週間チャートで初めてベストテン入りしたのは73年の8枚目のシングル「オレンジの雨」で、続いてリリースした「君が美しすぎて」は第3位にランキングされた。そして74年リリースの14枚目のシングル「甘い生活」(作詞・山上路夫、作曲・筒美京平)でオリコン週間チャートで初の首位を獲得した。同棲生活を始めたひとときの甘い生活を描いたこの曲で、筒美京平は日本レコード大賞作曲賞を受賞している。また、77年にリリースした24枚目のシングル「風の駅」(作詞・喜多條忠、作曲・筒美京平)は、78年1月19日に放送が開始されたTBS系列「ザ・ベストテン」で10位にランキングされ、同番組の栄えある1曲目に歌われた楽曲として記録されている。
紅白には、81年まで連続10回出場していたが、82年には出場が叶わなかった。そして83年に俳優として出演したTBS系列連続ドラマ木曜座「誰かが私を愛している」の主題歌「19:00の街」がヒットし、83年に紅白にカムバック出場した。白組司会の元NHKアナウンサーの鈴木健二が、言葉は正確ではないが「紅白に出場すること、そして、カムバックすることがいかに大変なことであるか。嬉しいカムバック出場です」といったような感じで野口を紹介したのを、おぼろげながら憶えている。大人の愛の模様を描いたシリーズ木曜座からは、岸田智史(現・岸田敏志)の「きみの朝」、松坂慶子の「愛の水中花」、豊島たづみの「とまどいトワイライト」、中村晃子の「恋の綱わたり」などのヒット曲が生まれている。