デビュー50周年超えの五輪真弓の「恋人よ」を聴きながら、ニューミュージックというジャンルは今でも生きていることを実感する

 思えば五輪真弓も団塊世代のしっぽにくくられるだろう。その彼女が最初にレコーディングした「少女」は、1971年にアメリカのロサンゼルスのスタジオだったというから驚かされる。CBS・ソニーでは日本のフォーク界の吉田拓郎がいたが、五輪真弓は拓郎に並ぶ最重要アーチストだという触れ込みだった。アメリカの有名シンガーのキャロル・キングはデモテープを聴いてすっかり魅了されレコーディングに参加したという。シングルと同時発売されたアルバムはオリコンで最高6位にランクされた。五輪真弓のデビューは「和製キャロル・キング」との惹句が付けられた。確かに日本の女性シンガーソングライターの草分けと言っていいのだろう。

 後になって知った「恋人よ」の誕生のエピソードが忘れられない。五輪のデビュー当時のディレクターが事故死し、葬儀に参列して悲嘆にくれる夫人の姿を見た衝動が書かせた楽曲だったのだ。この別れ話、冗談だよと、笑って…と綴ったのは、突然死した夫を思う妻にとって二度と戻ることがない辛い別離を語っていたのである。五輪が葬儀の帰途に思いつき書かせた楽曲だったと聞いて、その感性に、改めて震えたものだった。

 実は筆者もまったく同じような光景が忘れられない。1980年頃、勤めていた出版社で雑誌編集から書籍出版の編集部に異動したばかりのボクは仕事に戸惑っていたが、ベストセラーを狙える書籍の作り方、売り方、作家との付き合い方まで丁寧に指導してくれた上司がいた。数々のベストセラー本を世に送ってきた出版社から転籍した人だった。若い編集者らをカラオケのあるスナックで飲ませてくれたが、不治の病を知っていたのか、彼は何度か「恋人よ」を歌いながら涙を流すようになっていた。出版部門の指導者となったのも束の間で、40歳になる直前に癌に斃れたのだった。まだ幼い女の子がいた。療養中に編集部員を何度も自宅に呼び寄せて会議をしたことで夫人にもお世話になったが、幼子を抱きかかえて弔問客を迎える夫人の慟哭する姿が忘れられない。彼にとって、「恋人よ」は辞世の歌だったのか! これもしばらく後になって合点したことだった。

 ボクは五輪真弓をあまりにも遅く知ったと白状するが、それだけに彼女の代表曲となった「恋人よ」の衝撃は大きかった。日本レコード大賞の金賞を受賞したのも、「NHK紅白歌合戦」に初出場したのも「恋人よ」の大ヒットを受けてのことだった。

 冒頭に書いたように彼女は芸能界を泳ぐ流行歌手ではないと断言したい。しかし、同時代を生きた五輪真弓がボクらと同じように昭和歌謡を聴いて育ち、後々まで歌われる「恋人よ」をつくってくれたことを誇りに思うのである。

文:村澤 次郎 イラスト:山﨑 杉夫

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