昭和の日曜日の午後6時、忘れられないNHK[レッツゴーヤング]と[狩人]の「あずさ2号」に続くわが故郷が舞台のヒット曲「コスモス街道」

 優しい歌い出だしから徐々に盛り上がり、サビの「右は越後へ行く北の道 左は木曽まで行く……」はなかなか耳から離れない。軽井沢町の追分には、「分去れ」(わかされ)と言われる中山道と北国街道の分岐点を表す道標がある。作詞家の竜真知子はここを舞台にした。
 狩人が想いを込めて力強く歌う「右は越後へ行く北の道、左は木曽まで行く中山道」というのは、夭折の詩人、立原道造の「夏の旅」の一節だと、軽井沢町で「中山道69次資料館」という私設資料館を運営している館長の岸本豊さんに教えてもらった。

 岸本さんは、狩人の「コスモス街道」の舞台「分去れ」にコスモスがないのは寂しいと、「右は越後へ行く北の道 左は木曽までいく中仙道 続いているコスモスの花が 狩人うた 一九七七年」と刻んだ石碑を造り、さらに資料館沿いの旧中山道の100mにわたってコスモスの種を蒔き自ら育て始めたという。岸本さんの想いから、軽井沢町追分の地に「コスモス街道」が生まれたのだ。花が咲いた後枯れた花をこまめに切り落とし開花期間を長く維持させる。そうすると種が取れないため、春に蒔く種は四国に住む親戚から送ってもらっているという。もう19年も続けているそうで、その心遣いに頭が下がる思いがした。

 狩人は、「サウスポー」「モンスター」などでヒットチャートを独走していたピンク・レディーと一緒に「レッツゴーヤング」の司会をするなど活躍の場が広がっていった。しかし、兄弟の性格や考え方の相違で2007年12月末をもって解散。それぞれがソロ活動を始める。兄の久仁彦は、デビュー30周年を機に「青春時代」の名曲で知られる[森田公一とトップギャラン]のメンバーと一緒に、「加藤久仁彦&トップギャラン」としての活動やアマチュアボクシングの大会出場などもしたというから、少々驚いた。2012年に再結成し、個別の歌手活動もしながら、狩人としてもステージに立つこともある。これからも兄弟で活躍して欲しいというのが願いだ。

 そういえば、狩人がレギュラー出演していた頃の「レッツゴーヤング」は、司会者の都倉と一緒に出演者が「メッセージ」を歌ってエンディングになった。「メッセージ」は都倉のオリジナルソングで、作詞は自ら阿久悠に頼んでできた曲だという。あの頃、「メッセージ」を聴くと、明日から学校だというややブルーな気持ちになったことを思い出した。

文=黒澤百々子 イラスト=山崎杉夫

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