早稲田大学が創立100周年を迎えた1981年、僕は新たな大学生活を始めるため東京暮らしをスタートさせた。大学での授業も、それまでいた大学の学部とはまったく違う、文化人類学、ギリシャ神話、演劇、映画、音楽などの授業を選択し、体育の授業では馬術を選んだ。いずれも抽選科目だったが、運をすべて使いきったのではないかと思えるほど、すべての抽選に当選した。演劇、音楽などは他校の学生も潜り込むほどの人気授業だった。創立100周年を記念して大隈講堂で開催された、早稲田出身の松本幸四郎(現・白鸚)、中村吉右衛門らによる歌舞伎『勧進帳』や、森繁久彌主演のミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』観劇の抽選にも当選し、貴重な体験をした。
プライベートでも、ミニ・シアターや並木座、文芸坐といった名画座に通い、小劇場系の舞台にもいそいそと出かけ、東京ならではの学生生活を満喫していたと言えるだろう。アパートの近くの名曲喫茶には、週一回は顔を出していた。当時はカフェではなく、今で言うところの純喫茶が学生街のいたるところにあり、授業をさぼっている学生で席はうまっていた。僕も日に何度もいきつけの喫茶店で年下の同級生ら(2度目の大学なので、同級生はおろか先輩たちもすべて年下だった)と、遊びや飲み会の相談をし、たまには映画論、文学論などをぶつけあったりもした。
そして、東京暮らしを始めて、最初に観たコンサートが埼玉県の森林公園で開催された野外での竹内まりやのコンサートだった。以前、大滝詠一の「さらばシベリア鉄道」の回でも登場した先輩(学部もサークルも直接のつながりはなかったが、同じクラスの友人が先輩と同じ音楽サークルに入っていたのが縁で、親しくしてもらっていた)に誘われて出かけたのだ。確か、無料コンサートではなかったかと記憶しているが、無料だけが理由ではなく、デビュー以来、竹内まりやの声が大好きだったので、初めて生でその声を聴けることが、これも東京暮らしの特典かと嬉しかった。先輩のお母さんが弁当にと作ってくれた、チーズとおかかのおむすびの味とともに、そのときの情景は今でも鮮やかだ。それ以来、学園祭や、ラジオ番組の公開録音コンサートなどの、僕と同学年の竹内まりやを追っかけた。
竹内まりやと言えば、現在につながる日本の音楽シーンの中で、中島みゆきや松任谷由実と並び語り継がれる音楽の才能とセンスの持ち主だが、デビューした頃は、その容姿からアイドルのような扱いをされていたような景色が浮かぶ。昨年デビュー45周年を迎えた竹内まりやは、プロの歌手を目指していたわけではなかったが、大学のバンドサークルでバックコーラスのアルバイトを経て、プロへの誘いを受け、1978年11月25日にシングル「戻っておいで・私の時間」と、アルバム『BEGINNING』の同時リリースで音楽界デビューを果たした。まだ、東京に来る前、音楽通の友だちから聴かされたファースト・アルバムから流れる、竹内まりやの唯一無二の気持ちのいいアルトの声に、僕の中の音楽の部分が揺さぶられた。しいて、同じタイプの声をあげるとしたら、カーペンターズのカレンの声に似ているだろうか。
当時は、自身で作詞・作曲を本格的には手がけてなく、アルバムは加藤和彦、安井かずみ、竜真知子、林哲司、大貫妙子、細野晴臣、山下達郎などの作家陣を迎えた、ほとんどが提供曲で構成されていた。シングル「戻っておいで・私の時間」の作詞は安井かずみが、作曲は加藤和彦が手がけている。伊勢丹のテレビCMのテーマソングだった。
79年2月25日には2枚目のシングル「ドリーム・オブ・ユー~レモンライムの青い風~」がリリースされた。この曲もまた、キリンレモンのCMソングというタイアップ曲で、作詞を竜真知子、作曲を加藤和彦、編曲を瀬尾一三が手がけたイントロが印象的な爽快感を感じさせ、オリコン・シングルチャート最高位が30位だったが、トップ100位圏内に半年近くチャート・インしていた。