第75回NHK紅白歌合戦の勝敗を決した、西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」を追悼合唱した竹下景子、武田鉄矢、田中健、松崎しげる、そしてもう一人の男

「もしもピアノが弾けたなら」という楽曲がよくぞ生まれ、西田敏行という人懐っこいエンターティナーに歌唱されたのが、奇跡のように思えてならない。西田の人柄、滲み出る〝徳〟そのものを現していて、どんなに上手い歌手に委ねられても空虚に聴こえてしまうような気がしてならない。ちょっとおっちょこちょいだが人が良く、不器用な生き方しかできない。そう、池中玄太のようだし、釣りバカ日誌のハマちゃんこと浜崎伝助そのものなのだ。だいたいピアノが弾けないのに、君への思いを伝えることなどできるはずがない、ピアノもなければ、ピアノを弾ける腕もないのに、人を愛した喜びを伝えたいなどと周りの連中は笑って相手にしないだろうに。しかし全ての人に優しく接する人間的な包容力、丸い太鼓腹の巨体は鷹揚に笑ってこたえるだろう。「人間やりたいことはたくさんあっても出来ないこともあるんだからさぁ、一つでも得意なことを見つければいいんじゃないの」と。ハマちゃんが三国連太郎のスーさんを諭すような口ぶりが聞こえてくる。

 
 チャンバラ映画に熱中した少年は、いつか演劇で身を立てようと志したという。1968年(昭和43)青年座俳優養成所入所、2年後劇団青年座座員となり1971年10月公演『写楽考』(矢代静一作)でいきなり主役に抜擢される。だが、その後しばらく不遇の時期があった。ボクが西田敏行の名を初めて耳にしたのは、その頃だった。芸能、文化、政治、経済と分野を問わず若い雑誌編集者や記者たちの集まりがあった。そこにゲストとして招かれたのは、西田本人ではなくマネージャーのMだった。北海道出身の独特の大らかさを感じさせ、西田の一つ下で、ボクより一つ上の明るく屈託のない人だった。口を開けば、「西田をよろしく、西田をよろしく」と誰彼構わず声をかけていた。一所懸命だった。芸能界に触れることなどなかった新米編集者のボクは、こうして役者を売り込むことも仕事なのか、と初めて知ることだった。

 彼もまた演劇青年だった。北海道旭川の文学座で「欲望という名の電車」の公演を高校生の時に見て感激し、演劇を学ぶために上京したという。二十歳の時にNHKの「青年の主張」という意見発表の番組に出て優勝したというから、役者の片鱗はすでに持ち合わせていたのだろう。26歳の時青年座に入り、マネージャーとなっている。西田敏行を世に出すためには、縁のなかった民放テレビ局にたった一人で飛び込み営業を辞さず日参したという。後年、芸能人事務所・青年座映画放送株式会社の取締役にもなって日本芸能マネージメント事業者協会の重鎮となった。今、彼は西田敏行の死をどんな思いでいるのか。劇団を通じての連絡は途絶えたままだが、Mマネージャーを紹介したかったのは、その言動と周囲を明るくする人柄が西田敏行そのものと思えるからである。すでに青年座を卒業し、サラリーマン人生は終わっていることだろう。

 ほぼ同輩の西田敏行の60年以上にわたる芸能生活の活躍は、旭日小授賞に集約されている。映画、テレビ、ラジオ等々あらゆるメディアを通して、彼は笑顔を振りまいて人々を幸せにしてきたのだ。 
 2024年もまた歌謡芸能の世界で活躍され逝去した著名人が多くいた。思いつくままに、中村メイコ、八代亜紀、山本陽子、久我美子、園まり、火野正平、中山美穂…そして西田敏行と枚挙にいとまがない。人徳ということばがあるが、〝徳〟とは何も人知れず財を振る舞うことだけではない。西田敏行というあの愛嬌のある誰からも愛される人間の存在そのものが、丸ごと〝徳〟だったのではあるまいか、今は亡き西田の〝遺徳〟を後世につづく者たちは肚の中心に据えるべきである。合掌

文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫

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