
「山谷」と書いて「さんや」と読む。かつて東京都台東区の北東部の地名であり、現在は清川・日本堤・東浅草一帯を指す。一大繁華街・観光地の「浅草」の北側に位置していて、旧吉原遊郭にも近い。住居表示の呼び名は消滅したが、山谷といえば日雇い労働者の簡易宿泊所が軒を連ねた「ドヤ街」と呼ばれていて、近寄りがたいスラム街だった。
当時21歳の岡林信康が、その山谷で過ごした体験を楽曲にしたのが「山谷ブルース」である。1968年(昭和43)9月25日に日本ビクターからシングルリリースされた。この独白のようなギターの弾き語りを初めて聴いたのは、ボクが大学受験に失敗した年の暮だった。浪人だのに受験勉強はできず、高校のOBの実家が営むガソリンスタンドでアルバイトに精を出さなければならなかった。実は高2から高3の途中一年分の月謝を払わずに遊び代に化け、そのツケを払うためだった。親には月謝を払っていなかったことを、とうとう最後まで白状できなかった。卒業証書を与える代わりに理事だったか何か高校の要職にあったOBの実家のガソリンスタンドで、約10カ月の間、ボクは働かなければならなかったという次第。何せ私立高校の月謝の滞納は半端ではなく、ツケは給料から天引きされるという苦い思い出だ。そのバイト先が山谷からほど近い隅田川に架かる白髭橋(しらひげばし)のふもとにあった。
ガソリンスタンドの冬の仕事はツラかった。屋根のない吹きさらしの戸外でガソリンを求めてくる車を待ち、「いらっしゃいませ!」と大声で迎える。「オーライ!オーライ!」と指定の位置に引導してキーを預かるが、給油する手は凍えてかじかんでいる。窓拭きは当然、タイヤの空気圧をチェックする、エンジンのオイルゲージを調べる、このあたりまでは当たり前のサービスだった時代だ。特に高級車の持ち主のほとんどは横柄な態度だった。中には、確かに「満タン!」と言ったのに、給油を終えて伝票を渡すと「10リッターだと言っただろう!」と凄んで開き直り10リッター分の現金しか払わない客までいた。
帰途、「今日の仕事はつらかった」と呟くように「山谷ブルース」が口をついて出た。
山谷のドヤ街までは徒歩でもそう時間はかからなかったが、「あそこには近づいちゃいけないよ」とガソリンスタンドの店主が注意するほどの危険区域だったのだろう。しかし、岡林信康の弾き語りでは、人は山谷を悪く言うが、俺たちがいなくなればビルも道路もできはしない、と歌っている。そして、俺たちは泣かないぞ、と言い聞かせ、そのうち働く俺たちの世の中がきっと来て、その日には一緒に泣こうぜ嬉し泣き、と未来に向かって歌い上げている。一日のツライ仕事が終わってドヤに帰って焼酎を呷る(あおる)だけの日々、それでもいつかは俺たちが嬉し泣きできる日が来る、と。自棄っぱち(やけっぱち)だけの詩ではない、最後に希望がある。この心象を歌った岡林信康に興味をもった。

当時の岡林信康の氏素性など知らなかった。グループサウンズ・ブームとともにカレッジ・フォークと呼ばれる、男女のことがベースになっているラブソングばかりを聴いていた時に、「山谷ブルース」は否応なく重労働(?)することになった軟派な高校生にとって、衝撃的だった。時代はアングラ・ブーム。学生素人バンドの加藤和彦らのフォーク・クルセダーズの「帰ってヨッパライ」が大ヒットしていた。クセのある歌い手やグループのほとんどは関西発だったように思う。東京の軟弱な大学生とは明らかに違って見えた。