
歌手と俳優の二刀流で活躍するタレントは多いが、シンガーソングライターとエリート銀行マンという特異な二刀流で名曲を残した唯一無二の存在が小椋佳だ。
第一勧業銀行(現・みずほ銀行)の主要部門で成果をあげながら、表舞台に出ないアーティストとして活動していたのだが、1975年(昭和50)に布施明に提供した「シクラメンのかほり」が大ヒットし第17回日本レコード大賞を受賞すると、小椋佳の名前が注目されていった。
中村雅俊に提供した「俺たちの旅」(75)、「時」(76)、「俺たちの祭」(77)、美空ひばりの「愛燦燦」(86)、梅沢富美男の「夢芝居」(82)、研ナオコ「泣かせて」(83)など、延べ300人以上の歌手に曲を提供すれば、高倉健と吉永小百合の共演した映画『動乱』の主題歌「流れるなら」(79)、資生堂のCMソング「揺れるまなざし」(76)、その他にも社歌や校歌など世に送り出した楽曲は枚挙にいとまがない。もって生まれた才能と言ってしまえばそれまでだが、優しく柔らかく包み込まれるような低音で、繊細な心の動きを歌にする小椋佳の驚異的な活動に改めて感服させられている。
小椋佳としてのキャリアのスタートは、劇作家、詩人歌人である寺山修司との出会いに遡る。寺山がDJを務める番組でリスナーの出演を募ったところ、法学部の学生でありながら芸術に興味をもっていた小椋は、ギターを持って駆けつけ、その後寺山サロンに出入りするようになった。寺山は、羽仁進監督と自身が共同でシナリオを執筆した映画『初恋・地獄篇』(68)を再構成し、天井桟敷の第一弾のアルバム作りに銀行員になった小椋を誘った。そこで「ラブレター」「僕は恋してる」「逢いたい」の3曲を、小椋は歌手として初めてレコーディングすることになった。このアルバムにはカルメン・マキ、石井くに子、GSのクレイジー・ボーイズなども参加しており、音楽ばかりではなくナレーションや朗読も入っている。ジャケット写真の撮影は篠山紀信だ。
これを聴いたのがポリドールレコードの新人プロデューサー多賀英典だった。多賀は安全地帯、井上陽水、松たか子などを手がけた名プロデューサーで、のちにキティ・レコードやキティ・フィルムなどキティ・グループを創業している。多賀は小椋の声のイメージから、15、6歳の美少年を想像していたが、25歳の銀行員ですでに所帯持ち、容姿端麗とは言いがたい小椋をみて、新人歌手として売り出すことはすぐさま諦めた。しかし、小椋の自作の曲を聴いてみると、多賀は興奮するほど感動を覚え、小椋の楽曲にふさわしい歌手を探すことになった。ところが発掘はなかなか進まず、小椋自らが歌うアルバム『青春~砂漠の少年~』が1971年1月15日リリースされた。デビューと言っても新人歌手のような華やかさは全くなかったが、アルバムの中の「しおさいの詩」が映画監督・森谷司郎に気に入られ、71年東宝の正月映画『初めての旅』に採用されたのである。
リリースされた当時、本人は銀行からの出向で、シカゴの大学院にいた。アルバムが世に出たことを心配した小椋の先輩が、銀行の人事部にお伺いを立てると、「どうせたいしたことはないだろうから、放っておこう」と不問に付されたという。銀行側も小椋のことにかまっていられない時期だった。小椋の勤務先、日本勧業銀行と第一銀行が合併するという重大事が進んでいた時だった。
LPはじわじわと売れ出し、2枚目のLP『雨』のリリースも決まったが、小椋の情報は「東大卒の謎のシンガー」とされ、外部にシャットアウトされていた。そして『青春~砂漠の少年~』と2枚目の『雨』を再構築した3枚目のアルバム『彷徨』がLPのロングセラー・チャートに登場。黒盤LPの総生産枚数が歴代第2位となる。因みに第Ⅰ位は井上陽水の『氷の世界』である。名プロデューサーの手腕もあるが、徐々に小椋の音楽は世の中に浸透していった。
