紅白で、北原謙二の歌声を聴いたときに、S兄ちゃんの顔がくっきりと浮かび上がってきたのだ。やはり歌や歌声の記憶は、一瞬で人を懐かしい時代へといざなってくれるようだ。
北原謙二は、ジャズ喫茶で歌っていたことが縁で、鈴木英治とブルー・カウボーイズのメンバーとして大阪から上京し、その後日本コロムビアのディレクターにスカウトされ、61年に歌手デビューした。最初のヒット曲が62年5月に11枚目のシングルとしてリリースされた前述の「若いふたり」(作詞:杉本夜詩美、作曲:遠藤実、編曲:山路進一)だった。当時、大流行していたドドンパのリズムの楽曲だ。ドドンパとは、日本の都々逸のリズムと洋楽のリズムのマンボが融合したもので、60年代に日本で流行った特有のリズムだ。ドドンパを取り入れた歌謡曲には渡辺マリ「東京ドドンパ娘」、佐川ミツオ(後に満男)の「無情の夢」、和田弘とマヒナスターズ&松尾和子の「お座敷小唄」などがある。
北原謙二は半テンポ遅れてくるような独特の歌い方で、ちょっと鼻にかかった歌声がカントリー&ウエスタンのムードを出していた。「若いふたり」のヒットにより、62年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たす。この年の初出場組には、仲宗根美樹、弘田三枝子、中尾ミエ、大阪色を前面に打ち出した3人組のトリオ・こいさんず、スリー・グレイセス、民謡出身の及川三千代、五月みどり、「湖愁」のヒットで知られる松島アキラ、「ルイジアナ・ママ」など洋楽カバー曲をヒットさせ、後にプロデューサーとしてピンク・レディーを発掘した飯田久彦、坂本九も加入していたバンドグループのダニー飯田とパラダイス・キング、デューク・エイセス、植木等、吉永小百合がいる。実に14組もの歌手が初出場を果たしている。多くのヒット曲が誕生した年と見ることができるだろう。
北原謙二は、その後「若い明日」のヒットで63年に2度目の紅白出場を果たした。64年に出した洋楽カバー曲「北風」は、北原謙二の声の質にあったカントリー&ウエスタンで、S兄ちゃんもよく歌っていた。今回、ピックアップしたのは65年にリリースされた「ふるさとのはなしをしよう」だ。
「ふるさとのはなしをしよう」は北原謙二28枚目のシングルで、作詞は伊野上のぼる、作曲はキダ・タロー、作詞は山路進一とある。今回の原稿を書くに当たり、「ふるさとのはなしをしよう」の作曲がキダ・タローであったことを知った。
キダ・タローと言えば、「出前一丁」「かに道楽」「小山ゆうえんち」などのCMソングや、横山やすしと西川きよしの司会で人気を集めたバラエティ番組「プロポーズ大作戦」をはじめ、数多くのテレビやラジオ番組のテーマ曲の作曲家として知られており、〝浪花のモーツァルト〟の異名を持つ。バラエティ番組のトークでもいい味わいをみせていたが、2024年5月14日に亡くなった。本年が一周忌である。「ふるさとのはなしをしよう」は、キダ・タローのレコード・デビュー曲だという。そういえば、「ふるさとのはなしをしよう」も、大阪・朝日放送「クレハ・ホームソング」の挿入歌で、タイアップ曲だった。伊野上のぼるについて、詳しくはしらないが、「かに道楽」のCMソングでもキダ・タローとコンビを組んでいる。編曲の山路進一は、舟木一夫のヒット曲「北国の街」や「東京は恋する」の作・編曲を手がけたほか、こまどり姉妹「ソーラン渡り鳥」、五月みどり「一週間に十日来い」、金田たつえ「花街の母」などの編曲も手がけるなど、コロムビア専属の作・編曲家であった。
一番では海辺の〝ぼく〟のふるさとの風景を歌い、二番では下町の〝きみ〟のふるさとの情景を歌い、三番では海辺の風景とはまた違う〝ぼく〟のふるさとの丘の風景をさらに歌っている。そして、きみの知らないぼくのふるさと、きみが生まれたきみのふるさと、そして、ぼくはもっと知りたいきみのふるさとのはなしをしようと、郷愁を誘う曲に仕上がっている。
87年か88年に当時編集を担当していた雑誌で「日本昭和歌謡曲」といった趣の特集を組み、無類の歌謡曲ファンで知られていた落語家の立川談志師匠に原稿を書いてもらったことがあった。その打ち合わせの折に、談志師匠は、「仲間うちで酒を飲んで酔うと、最後には必ずこの曲の合唱になる」と言っていた。東京の文京区生まれの談志師匠にも、郷愁のメロディが響いたのだろうか。
北原謙二は、ぼくが歌謡曲を知り初めし時代に登場してきた歌手であり、彼の歌声が、ぼくの中の昭和をいろいろと引き出してくれたようである。
文=渋村 徹 イラスト=山﨑杉夫