前出でもわかるように、66年の発売当時「ラブユー東京」はB面だった。ところが、産経新聞の記事によると、発売から半年を経たあたりから、山梨県・甲府市のバーなどのホステスさんたちの間で「ラブユー東京」が話題になり、さらには作曲の中川博之と、中川の友人で後に「浅見光彦シリーズ」で人気推理作家となる内田康夫が制作に関わった深夜ラジオで連夜「ラブユー東京」を流し続け、曲の知名度が上がってくる。そして、67年にはAB面が逆転しA面曲に昇格したバージョンが登場し大ヒットとなった。
ドーナツ盤シリーズでもたびたび触れているオリコンチャート。オリコンリサーチ株式会社が発表する日本国内の音楽・映像ソフトなどの売上を集計したランキングで、正式名称はオリコンランキングというらしい。オリコンランキングの正式スタートは68年1月4日付からで、シングル週間チャート記念すべき第1回の1位は黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」だった。2週連続第1位を獲得している。実際には67年の段階ですでに大ヒットしていたので、オリコンの正式スタートが67年であれば、もっと長く1位が記録されていたに違いない。有線放送へのリクエストランキングでも1位を獲得している。
作曲を手がけた中川博之にとってもデビュー作であり、中川はその後もロス・プリモスのヒット曲「雨の銀座」、「たそがれの銀座」、「さよならは五つのひらがな」などの作曲を手がけたほか、美川憲一の歌でヒットした「新潟ブルース」、「お金をちょうだい」、「さそり座の女」、斉条史朗の「夜の銀狐」、西郷輝彦の「海はふりむかない」、敏いとうとハッピー&ブルーの「わたし祈ってます」など、クラウンレコードの専属作曲家として、まさにムード歌謡のヒット・メーカーとも言える活躍ぶりだ。
「ラブユー東京」は、ボーカルの森聖二の声がムード歌謡の世界にピタッとはまる艶っぽさで、ネオン街の世界へといざなってくれる。半拍タメて「(ん)七色の虹が~」と歌い出すのも特徴的で、今の時代でもカラオケで人気があり、昭和のスナックのムードに包まれる。
「雨の銀座」のヒットに続く銀座シリーズで7枚目のシングル曲「たそがれの銀座」は、4コーラス構成で、銀座のキーワードを取り込みながら一丁目から始まって八丁目までの銀座が綴られており、銀座のカラオケバーでぜひとも歌ってみたい曲だ。この曲も発売と同時にオリコンにランクインしており、黒沢明とロス・プリモスは68年のNHK紅白歌合戦に、前年まで9回連続出場していた和田弘とマヒナスターズと入れ替わるように、鶴岡雅義と東京ロマンチカとともに初出場を果たしている。また、ムード歌謡路線の美川憲一と森進一の初出場も68年だった。
ロス・プリモスのそのほかのヒット曲には、タンゴのリズムの「君からお行きよ」、筒美京平作曲の「ヘッド・ライト」などもあった。68年はムード歌謡の新たなステージが花開いた年だと言ってもいいかもしれない。当時のテレビ各局のランキングスタイルの歌謡番組には、連日多くの歌謡コーラスグループが出演していたのを思い出す。そして、それを牽引したのが黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」だった、とぼくには思えるのだ。
文=渋村 徹 イラスト=山﨑杉夫
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