わが昭和歌謡はドーナツ盤

演歌ではない〈艶歌〉が正式なキャッチフレーズだった、青江三奈の「恍惚のブルース」の〝あとはおぼろ〟に女の哀しみが漂っていた


「恍惚」という言葉をはじめて知ったのは、青江三奈の喉から絞り出すようなしわがれた声で聴いた歌謡曲「恍惚のブルース」だった。振り返ってみれば、昭和41年(1966年)6月の発売というからボクはまだ17歳になったばかり、意味も分からないまま聴こえてくる大人の女性のかすれた声の歌唱に、いやらしい妄想が浮かんだものだった。商店街や繁華街のパチンコ屋あたりの質の悪いスピーカーから、青江三奈のハスキーボイスががなり立てるように聴こえていた。「コウコツって何だ?」と、友だちに問いかけるもなく、辞書を引くわけでもなく勝手な解釈をしていた。わが〝青春の曙〟は邪まな想像力が一段と活発にはたらくのである(自分だけかも知れないが)。もっぱら流行歌の嗜好はフォークやGS(グループ・サウンズ)、ポップスに変遷していたボクに、相当なインパクトがあったにちがいない。都会の繁華街の(池袋とか新宿の)ハズレの酒場に居そうな、青江三奈。〝恍惚〟という言葉とその茶髪(金髪?)の歌手のエロティックさが脳裏に刻まれて、60年も経とうというのに忘れられない一曲になった。

 後で知ったことだが、青春の男子を妄想にいざなう作詩・川内康範(あえて作詩とした)は、「月光仮面は誰でしょう」を書いた。ボクらの少年時代、最もカッコいいヒーローを誕生させた僧侶の息子が時を経て書いたのは、男との恋に溺れて抜き差しならぬ女の弱さだった。「月光仮面」との落差に驚かされる。毎夜のごとく男にすがり付き、しのび泣き、すすり泣く女の性(さが)を描いている。「あたしをこんなにしたあなた」、「あなたがこんなにしたわたし」と続けば男にしなだれかかる愛欲の果てのことだろう。「あとはおぼろ、あとはおぼろ」と各小節でリフレインを繰り返す。「おぼろ」って、「朧げ」のことか、と思いつつ青江三奈の発音は、「あとはウォヴォロ、あとはウォヴォロ」と歌っている。それがまた悩ましさ、いや増すことしきりだった。なるほど「艶歌」である。

 川内康範は『週刊新潮』の連載小説「恍惚」のヒロイン「青江三奈」を、そのまま本名の井原静子の芸名として名乗らせたという。小説に登場する、流行歌手を目指す青江三奈とすでにクラブ歌手として「銀巴里」あたりで頭角を現し始めていた井原静子が、川内康範には重なったのであろう。原作の題名に「ブルース」を付けたことでいかにも都会的な楽曲の響きになったのも大ヒットの要因の一つではないだろうか。(作曲:浜口庫之助)

「ブルース=blues」とはアメリカ南部の黒人たちの哀歌であり憂鬱な気持ち(ブルー)から発した音楽ジャンルだが、日本のブルースのニュアンスはやはり女性が男を思う儚げな哀調の楽曲に使われることが多い。ただ、ビクターから青江三奈のデビュー曲となった「恍惚のブルース」は、演歌といわず「艶歌」と言った。ビクターは新しいジャンル風に〝艶歌ブルース〟と銘打ったのだ。「銀巴里」で鍛えた青江三奈の歌唱力は、ジャズやシャンソン、カンツォーネからラテンまでこなせることができた。その陰ではデビュー前から10歳余り年上の作曲家・花礼二に師事して同棲し事実婚の関係だったが、彼女の歌唱力は花によって磨かれたというのは通説となっている。二人はのちに結婚しているが、当時の芸能界には、「まだ若い女性歌手にパートナーがいることは許されない」という人気商売の宿命を負っていて、しばらく詳らかにされることはなかった。デビュー曲はヒットしたものの、新宿四谷のアパートでの隠忍自重を余儀なくされた同棲生活を思うと、彼女の悲哀の歌唱がわれわれの心に響いてくるのは、むべなるかな、である。

 

 80万枚の売上げを誇った「恍惚のブルース」で第17回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしたが、次作「伊勢佐木町ブルース」のヒットまでは苦戦つづきだった。一方でビクターから同期デビューした森進一のハスキーボイスの〝ため息路線〟はヒットを続けていた。青江にとって長い踊り場だったことだろう。1968年、イントロの妖しい吐息で始まり、途中〈ドゥドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥバー〉のスキャットが話題を呼んで「伊勢佐木町ブルース」は火がついた。ビクターから「恍惚」以後の青江の再起を頼まれた作詩の川内康範が一矢報いたのだった。いわゆるご当地ソングでその真骨頂を発揮することになる。1968年には同曲で再び第19回紅白の舞台に立ち、以後1983年の第34回まで16年連続で出場を果たしている。因みに、「伊勢佐木町ブルース」のレコーディングの際にイントロが寂しいから、とスタッフから「何か適当に、色っぽいため息を入れられないか」との注文が入り即興的に口を衝いて出た「あぁ~」「う~ん」というエロティックな吐息は青江三奈の妖しい歌唱に拍車をかけた。演歌にはないジャズボーカルのようなスキャットもまた「艶歌ブルース」を際立たせた。紅白といえば、7年後の1990年に18回目の出場を果たした。これはこの年の12月に亡くなった作曲家・浜口庫之助を偲んで、再び「恍惚のブルース」を歌唱し、西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」と競っている。だが、これが最後の出場だった。


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