編集部から、「そんな曲、誰も知りません!」と言下に却下されることを覚悟して、今回の「わが昭和歌謡はドーナツ盤」に臨んだ。
「昭和30年代、僕ら幼き学童の頃に聴き、触れた洋楽の原点なのだから」と言い訳まで用意していたが、あっさりOK。「へぇ~、森山加代子さんは亡くなりましたよね、2019年3月6日、享年78。3月23日生まれだから79歳になる直前」と若き(?)編集部の女子はご丁寧に解説してくれた。
じゃぁ、もう7回忌か。可愛くてちょっと田舎っぽいおねえさんで、三つ編みを左右に垂らしていたかよチャンは、もういないのだった。それにしても勘定してみれば、9つも歳上だったのか…、ませた小学生がかよチャンに憧れて、なけなしの小遣いをはたいてドーナツ盤を買った時代にしばしタイムスリップしたという次第。
1959年9月にイタリアのミーナ・マッツィーニ(Mina Mazzini)が歌唱したシングル・レコード「Tintarella di luna」が、昭和35年(1960)6月「月影のナポリ」(訳詞:岩谷時子)というタイトルになって森山加代子のデビュー曲となった。輸入洋楽が日本語のカバー曲になって歌われる全盛時代を迎えていた。
「私はまだ生まれていません!」と叫ぶ編集女子に倣って調べると、1940年生まれのミーナと森山は2日違いの同い年。ミーナは85歳を迎えてご健在らしい。長身と美貌に恵まれ、ソプラノの声域はスリーオクターブまで広がり、15年間イタリア国内のヒットチャートの常連で超人気歌手だったとか。
実は、なにせ昭和35年のこと、「月影のナポリ」という曲名、ボクは記憶になかった。もちろん「Tintarella di luna」の原曲も原題名も知らず憶えているのは、〝ティンタレラ ディ ルーナ〟というフレーズだけ。ボクら学童は、「ちんたれら、ちんたれら」と覚えて面白がっていただけなのだが。
ほぼ同時期にザ・ピーナッツも「月影のナポリ」をキングレコードから発売したが、東芝レコードの森山盤の売り上げがはるかに凌ぎ、50万枚のヒット曲となった。当時はデビューした年のNHK紅白歌合戦には出場できないというジンクス(?)があったが、森山加代子は異例の抜擢で初出場を果たしている。ただし同年10月発売の3枚目のシングル「月影のキューバ」で第11回NHK紅白歌合戦は歌唱している。
さて、デビュー曲の「~ナポリ」の森山盤のジャケットには、「Toshiba」と英字であしらったロゴマークと「東芝レコード」と右肩にあり、左下辺には「東京芝浦電気株式会社」と明記されている。同社の一部門のレコード事業部だった時代に売り出されたシングル・リリースなのだ。しかし1960年10月になるとレコード部は独立した会社となって「東芝音楽工業」を名乗る。のちに「東芝音工」→「東芝EMI」の始まりの年だった。洋楽がどんどん輸入されて日本の音楽業界が様変わりしていく起点ともいえるのではないか。
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