26歳で新たに大学を受け直したため、ぼくが大学を卒業したのは30歳だった。就職するにも応募にあたり年齢制限もあって、さしたる就職活動もしなかったがある外資系の会社に受かり、学生生活と訣別した。だが、約2か月の研修期間を終えたその日に辞表を提出した。後先考えない行動だった。そして、海外で一人暮らしを経験してみたいと思い、すぐさまアメリカのシカゴに向かい、アパートメント暮らしを始めた。日本を出るとき、一枚だけ日本の歌手のカセットテープを持って行こうと思い、井上陽水のセルフカバーアルバム『9.5カラット』をカバンに入れた。その中の一曲が「いっそ セレナーデ」だ。日本に住むアメリカ人の友人からの「一緒に今作りたい雑誌を創ろう、早く日本に帰って来いよ」との誘いで帰国するまで、毎日のようにそのアルバムを聴き続けていた。
井上陽水の音楽との最初の出合いは中学生のときだった。当時よく聴いていた福岡のRKB毎日放送のラジオ番組「スマッシュ!!11」から流れてきたのがアンドレ・カンドレが歌う「カンドレ・マンドレ」という曲だった。どこに惹かれたのかは、よくわからないが、ポップでテンポがあり、お気楽な詩の世界のように聞こえたが、綴られた詩の世界の裏側に何かありそうなものを中学生のぼくに勘繰らせた、それまでに出合ったことのない曲だった。新しい音楽に耳ざとい同じクラスの友だちと二人で盛り上がった。この友だちは14年前に56歳の若さで突然死した。中学を卒業してそれぞれ別々の高校、大学へ進学したが、交遊は続き生涯の大親友だった。1969年7月にCBS・ソニー(現:ソニー・ミュージックレコーズ)から発売されると、いきつけのレコード・ショップですぐに購入し、その親友とまわし聴きした。演奏は小室等率いる六文銭で、編曲も小室等が担当している。アンドレ・カンドレの活動はシングル盤3枚のリリースで終わり、71年にはポリドール・レコードに移籍し、井上陽水と名を改めた72年5月リリースの最初のアルバム『断絶』で、ぼくは再びアンドレ・カンドレ=井上陽水の世界にとりこまれることになった。
当時の中学生にとってはLPレコード(アルバム)はなかなか高価で手が出ず、もっぱらドーナツ盤ばかり買っていた。ヒットしている曲に興味があり、ヒット全集以外アルバム自体に興味がなかったのも事実だ。それでも、初めて買ったLPレコードはサイモンとガーファンクルだった。井上陽水の『断絶』に出合ったとき、ぼくは高校生になっていた。音楽にしてもヒット曲を追いかけるのではなく、アーティストの音楽性を追いかけるようになっていた。吉田拓郎や南こうせつとかぐや姫(後にかぐや姫)なども、シングルではなくLPレコードを求めるようになっていた。映画のサントラ盤、ザ・ビージーズやバート・バカラック、トニー・ベネット、ボブ・ディラン、レナード・バーンスタイン、ヴァイオリニストの前橋汀子、チューリップ、はっぴいえんど、NSP(ニュー・サディスティック・ピンク)、五つの赤い風船、ビリー・ジョエルなど、アルバムのコレクションも増えていった。陽水の『断絶』もその一枚だった。というより、むしろ『断絶』に出合い、ぼくはLPレコードを買うようになった。
『断絶』は井上陽水名義でリリースした最初の作品で、2か月後には収録されている「傘がない」がシングルカットされ注目された。収録曲は全曲井上陽水作詞・作曲、星勝編曲。「傘がない」のほかにも、「人生が二度あれば」(アルバムの2か月前に陽水のファーストシングルとしてリリースされている)、「感謝知らずの女」、「愛は君」など、学校から帰ると毎日聴いていた。