わが昭和歌謡はドーナツ盤

昭和の「NHK紅白歌合戦」の常連だった浪曲出身の二大スター歌手、村田英雄は「王将」を大ヒットさせ、三波春夫は堂々と大トリを3回飾った


 間もなく大晦日恒例の「NHK紅白歌合戦」である。2025年(昭和100年)を締めくくるこの歌謡ショーも数えて第76回。すでに出演者も発表されているが、昭和歌謡全盛時代の記憶を残している世代には、紅白といえば〝懐メロ〟がよみがえってしまうことをお許し願いたい。

 小学生の頃、明治生まれの父はラジオから流れる浪曲をじっと聴き入っている時間が多く、自然と耳に入ってくる広沢虎造のうなり声のフレーズも微かに記憶にある。「旅ゆけば~駿河の国の茶の香り~」と、「清水次郎長伝」の森の石松が題材で、「呑みねえ食いねえ」「馬鹿は死ななきゃぁ~なおらない」と断片的に科白も覚えている。昭和の時代、ラジオには浪曲のレギュラー番組があったのだ。

 昭和30年代に入って、浪曲界から二人の演歌歌謡のスターが誕生する。三波春夫と村田英雄である。6つ年上の三波春夫はひと足先に、〝浪曲調歌謡曲〟を目指していた頃、まだ20代の若手浪曲師、村田英雄の口演をたまたまラジオで聴いた作曲家・古賀政男は、浪曲を歌謡曲のように歌えないか、と閃いたという。村田英雄は古賀政男に見いだされて歌謡界に出たのだった。

 村田の歌謡浪曲のデビューは、1958年(昭和33)。岩下俊作の原作による代表的な浪曲ドラマ『無法松の一生』をアレンジしたものだった。同名で映画(1943年・稲垣浩監督、主演・阪東妻三郎)にもなっていたし、1958年のリメイク版映画(主演・三船敏郎)も公開されている(ただし、主題歌ではない)。~小倉生まれで、玄海育ち~と、作詞したのは吉野夫二郎、作曲:古賀政男。しかし、その後3年間シングル盤を打てども打てどもヒットに恵まれない雌伏期間だったが、昭和36年(1961)9月に発売された歌謡浪曲のLPからシングルカットされて11月に発売されたのが、「王将」(作詞:西條八十、作曲:船村徹)だった。関西ではヒットしていたというが、11月の発売にもかかわらず大晦日の第12回NHK紅白歌合戦に、村田英雄は「王将」で初出場を果たすのである。それだけ凄まじい売上げで、半年もしないうちに30万枚を達成し、あっという間にミリオンセラーを記録する。「王将」の勢いはそれまでリリースされていた「無法松~」や「人生劇場」(1959、作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男)などにも遅ればせながら火をつけて、村田英雄は一気に全国区になっていった。

 
 この年、忘れられない昭和歌謡のオンパレードの年でもあった。年間シングルランキングのベストテンを上げると、①上を向いて歩こう(坂本九)、②王将(村田英雄)、③スーダラ節(植木等)、④銀座の恋の物語(石原裕次郎&牧村旬子)、⑤君恋し(フランク永井)、⑥恋しているんだもん(島倉千代子)、⑦おひまなら来てね(五月みどり)、⑧コーヒー・ルンバ(西田佐知子)、⑨ラストダンスは私に(越路吹雪)、⑩東京ドドンパ娘(渡辺マリ)である。そして第3回日本レコード大賞はフランク永井「君恋し」が受賞。翌年までヒットが続いて第4回日本レコード大賞特別賞を受賞したのは、村田の「王将」と、西田佐知子は2年越しで「アカシアの雨がやむとき」がヒットして受賞している。

 因みに、終生ライバル視され歌謡浪曲で先行デビューしていた三波春夫は、紅白出場連続4回目にして、「文左たから船」を歌唱して大トリを飾っている。大きく水を空けられているとはいえ、ボクの好みは村田英雄だったと言ってしまおう。余談だが、大相撲の栃錦VS.若乃花といえば若乃花、大鵬VS.柏戸といえば断然柏戸、北の湖VS.輪島といえば輪島だったことと似ている。これはどうにも解説のしようがない。ただの好みである。あえて言えば太陽のように明るくスキのなさそうな三波春夫もいいが、常に2番手ながら垢抜けない男臭さを放ちどこか愛嬌のある村田が好きだった。後にビートたけしが「オールナイトニッポン」でやたらと村田英雄をイジったが、いじられキャラの抜けたところに親しみがあった。

 この二人のライバル関係は茶の間の大人たちは面白おかしく話題にしていた。

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