子供のために鉛筆を削っていたのは母親だった

脚本家で映画監督の新藤兼人は、シナリオを書くのに鉛筆を使った。
机には綿棒の容器に常時20本くらいの鉛筆が立っていた。その鉛筆を削っていたのは、乙羽信子だった。真夜中にガリガリと鉛筆を削る音がする。
「乙羽さんは、寝る前にきまったように鉛筆を削るのである」とエッセイに書いている。乙羽は、決まって三菱の2Bの鉛筆を削っていたという。
長谷川町子の4コマ漫画「サザエさん」には、勉強机に向かい宿題に取り組んでいるかと思ったカツオが、勉強が手につかず実は、ありったけの鉛筆を小刀で削っていたというオチがある。
当時は小学生でも小刀で器用に鉛筆を削っていた。
鉛筆削り器がない時代、子供のために鉛筆を削っていたのは母親だった。
一本の鉛筆にも、子供を思う母の愛が込められていたのである。


一本の鉛筆が大事だった頃

鉛筆削りは昭和の母の思い出

文=川本三郎

昭和の風景 昭和の町 2018年10月1日号より


大事に扱われた貴重品

 アナログ人間なのでいまだにパソコンは使えない。原稿は昔ながらに鉛筆で書く。この原稿も鉛筆で書いている。
 鉛筆は日本では明治に入ってから普及した。とくに学校教育では鉛筆は貴重品で、生徒たちに大事にされた。
 西條八十に「鉛筆の心(しん)」という詩がある。大正八年に児童雑誌「赤い鳥」に発表された。
 「鉛筆の心 ほそくなれ 削って 削って 細くなれ」

 子供が小刀で一心に鉛筆を削っている姿が思い浮かぶ。注意しながら芯を細くしてゆく。折れないように丁寧に削ってゆく。
 宮沢賢治の『風の又三郎』では、村の小さな学校で、鉛筆が子どもたちにとっていかに大事だったかが描かれている。
 この童話は、書かれた年がはっきりしていないのだが、物語の舞台は大正末期か、昭和初期と思われる。
 夏休みが終って子供たちが学校に戻ってくる。一年生から六年生までがひとつの教室で勉強する。九月一日、高田三郎という転校生がやってくる。風の又三郎と呼ばれるようになる。
 二日目。四年生の佐太郎が昨日、鉛筆を失くしてしまったので、妹の三年生のかよの鉛筆を取ってしまう。
 妹のかよは泣きはじめる。それを見た又三郎は、佐太郎に自分の「半分ばかりになった鉛筆」をあげる。喜んだ佐太郎は、妹に鉛筆を返す。
 村の小さな学校では、半分になった鉛筆でも貴重品になっている。妹のかよが鉛筆のことを「木(き) ぺん」と言っているのが面白い。

北名古屋市にある昭和日常博物館で「昭和文具・ラボ」という企画展を開催した折に寄贈された「鉛筆人形?」。昭和30年代頃の鉛筆らしい。小刀で削ってこれ以上は使うことができないところまで使った鉛筆に顔が描かれている。鉛筆を大切にしていた心が伝わる一品だ。写真提供:昭和日常博物館

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