21.03.29 update

日常の履き物が下駄だった時代、鼻緒のすげかえの名シーン数々あり

成瀬巳喜男映画の下駄

 庶民の暮しを愛した成瀬巳喜男監督の映画には、よく下駄が出てくる。

 昭和二十八年の庶民劇、室生犀星原作『あにいもうと』には珍しい下駄が出てくる。

 町に出て看護婦になる勉強をしている次女の久我美子が、夏の一日、多摩川べりで茶店を開いている実家に帰ってくる。

 母親(浦部粂子)に手みやげを渡す。母親はなんだろうと包みを開ける。出てきたのは竹を張った下駄、竹張り。母親がうれしそうにいう。

「夏はこれに限るよ」。

 竹を張っているから夏は涼しいのだろう。母親のみやげにした。近年はほとんど見なくなった。

 この映画には町で下駄を売り歩いている行商人も出てくる。まだ下駄が日常の暮しに溶けこんでいたことが分かる。

 やはり成瀬巳喜男監督の戦前の作品、昭和十年の名作『妻よ薔薇のやうに』にも下駄が出てくる。

 伊藤智子演じる歌人が、どんな時に歌を作ろうと思うかと聞かれ、こんな答をする。

 さきほど町で若い夫婦が小さな女の子を連れて歩いているのを見かけた。女の子がころんで下駄の赤い鼻緒を切ってしまった。

 すると、母親が自分のハンカチを裂いて子供の鼻緒をすげかえた。そのあいだ父親が子供を抱いていた。

 スクリーンにその姿が映し出される。歌人は言う。「なんて美しい光景でしょう」「幸福というものを見た思いがしました」「こんな時に歌を作りたくなるの」

下駄履きにランニングシャツ姿の昭和10年の子供たち。このころ、国産愛用運動の一環として「下駄履き運動」なるものが唱えられていたという。現在では、下駄履きどころかランニングシャツで遊びまわる子供たちも見当たらなくなった。写真提供:ホームページ昭和の贈り物から。

鼻緒のすげかえは名場面

 下駄の欠点は鼻緒がよく切れること。しかし、切れた鼻緒のすげかえをする姿が情感を生み出す。

 映画のなかでもっとも有名な下駄の鼻緒のすげかえの場面は、黒澤明監督のデビュー作『姿三四郎』(43年)だろう。

 雨の降る日、藤田進演じる三四郎が番傘をさして神社の石段をのぼってゆく。するとカランコロンと下駄が落ちてくる。

 それを拾い上げて上を見ると、轟夕起子演じる小夜が、蛇の目傘のなか、途方に暮れて片足で立っている。三四郎は早速、腰の手拭を裂くと(昔の青年はよく手拭を腰にぶらさげていた)、小夜の鼻緒をすげかえてやる。

 この時、手拭をたたんで石段の上に敷き、小夜にその上に足を置くようにという心づかいも忘れない。二人がそのあと愛し合うようになるのはいうまでもない。

 昭和三十三年の映画、松本清張原作、野村芳太郎監督の傑作『張込み』にも印象的な鼻緒のすげかえの場面がある。

 東京から二人の刑事(宮口精二、大木実)が殺人犯人(田村高廣)を追って九州の佐賀市にやって来る。犯人が昔の恋人のところに現われるのを待つ。高峰秀子演じるその恋人は、いまは銀行員の後妻になって平凡な暮しをしている。

 夏のある日、夕立ちが降る。彼女は夫に傘と長靴を持ってゆく。若い刑事の大木実が尾行する。途中、彼女の下駄の鼻緒が切れる。仕方なく彼女は軒先で雨宿りをしながらひとりで鼻緒をすげかえる。その姿を刑事が遠くから見つめる。

 白いブラウスにスカート、そして下駄という平凡な主婦の高峰秀子がこの瞬間美しく輝く。

 下駄が日常の履き物だった時代ならではの名場面だろう。

 渥美清演じるテキ屋の寅さんも旅に出て下駄を売る。こんな口上を述べながら。

「足の親指と人差し指のあいだにはつぼがあります。鼻緒はここを刺激する。だから下駄は健康にいいんです」 

 昭和五十四年(1979)公開のシリーズ第二十四作『男はつらいよ 寅次郎の夢』(香川京子主演)。この時代でもまだまだ下駄は売れたようだ。


かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『我もまた渚を枕―東京近郊ひとり旅』『映画を見ればわかること』『銀幕風景』『現代映画、その歩むところに心せよ』『向田邦子と昭和の東京』『東京暮らし』『岩波写真文庫 川本三郎セレクション 復刻版』(全5 冊)など多数の著書がある。

1 2

映画は死なず

新着記事

  • 2024.10.10
    森美術館「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰って来...

    応募〆切:10月31日(木)

  • 2024.10.10
    戦後日本映画界に颯爽と現れるや時代のヒーローとして...

    石原裕次郎「赤いハンカチ」

  • 2024.10.09
    都会の喧騒に佇むゲストハウスに集う人々の心温まるヒ...

    応募〆切:11月5日(火)

  • 2024.10.09
    10月14日の「鉄道の日」をはさんで、海老名のロマ...

    10月9日(水)~11月18日(月)

  • 2024.10.09
    女優・高峰秀子生誕100年、ウェディングドレス姿が...

    10月5日(土)~1月13日(月・祝)

  • 2024.10.08
    釈放当日─世紀の瞬間の舞台裏を撮った、1台のカメラ...

    応募〆切:10月20日(日)

  • 2024.10.08
    東京ステーションギャラリー「テレンス・コンラン モ...

    応募〆切: 10月31日(木)

  • 2024.10.08
    秋バラが間もなく見ごろを迎える「谷津バラ園」 谷...

    京成電車下町さんぽ「谷津」

  • 2024.10.07
    「世界の持続可能な観光地TOP 100選」第1位の...

    箱根彩彩

  • 2024.10.03
    令和の今もコーラスで親しまれるH2Oが昭和58年リ...

    H2O「想い出がいっぱい」

特集 special feature 

わだばゴッホになる ! 板画家・棟方志功の  「芸業」

特集 わだばゴッホになる ! 板画家・棟方志功の 「芸業...

棟方志功の誤解 文=榎本了壱

VIVA! CINEMA 愛すべき映画人たちの大いなる遺産

特集 VIVA! CINEMA 愛すべき映画人たちの大いな...

「逝ける映画人を偲んで2021-2022」文=米谷紳之介

放浪の画家「山下 清の世界」を今。

特集 放浪の画家「山下 清の世界」を今。

「放浪の虫」の因って来たるところ 文=大竹昭子

「名匠・小津安二郎」の生誕120年、没後60年に想う

特集 「名匠・小津安二郎」の生誕120年、没後60年に想う

「いい顔」と「いい顔」が醸す小津映画の後味 文=米谷紳之介

人はなぜ「佐伯祐三」に惹かれるのか

特集 人はなぜ「佐伯祐三」に惹かれるのか

わが母とともに、祐三のパリへ  文=太田治子

ユーミン、半世紀の音楽旅

特集 ユーミン、半世紀の音楽旅

いつもユーミンが流れていた 文=有吉玉青

没後80年、「詩人・萩原朔太郎」を吟遊す 全国縦断、展覧会「萩原朔太郎大全」の旅 

特集 没後80年、「詩人・萩原朔太郎」を吟遊す 全国縦断、...

言葉の素顔とは?「萩原朔太郎大全」の試み。文=萩原朔美

喜劇の人 森繁久彌

特集 喜劇の人 森繁久彌

戦後昭和を元気にした<社長シリーズ>と<駅前シリーズ>

映画俳優 三船敏郎

特集 映画俳優 三船敏郎

戦後映画最大のスター〝世界のミフネ〟

「昭和歌謡アルバム」~プロマイドから流れくる思い出の流行歌 

昭和歌謡 「昭和歌謡アルバム」~プロマイドから流れくる思い出の...

第一弾 天地真理、安達明、久保浩、美樹克彦、あべ静江

故・大林宣彦が書き遺した、『二十四の瞳』の映画監督・木下惠介のこと

特集 故・大林宣彦が書き遺した、『二十四の瞳』の映画監督・...

「つつましく生きる庶民の情感」を映像にした49作品

仲代達矢を映画俳優として確立させた、名匠・小林正樹監督の信念

特集 仲代達矢を映画俳優として確立させた、名匠・小林正樹監...

「人間の條件」「怪談」「切腹」等全22作の根幹とは

挑戦し続ける劇団四季

特集 挑戦し続ける劇団四季

時代を先取りする日本エンタテインメント界のトップランナー

御存知! 東映時代劇

特集 御存知! 東映時代劇

みんなが拍手を送った勧善懲悪劇 

寅さんがいる風景

特集 寅さんがいる風景

やっぱり庶民のヒーローが懐かしい

アート界のレジェンド 横尾忠則の仕事

特集 アート界のレジェンド 横尾忠則の仕事

60年以上にわたる創造の全貌

東京日本橋浜町 明治座

特集 東京日本橋浜町 明治座

江戸薫る 芝居小屋の風情を今に

「芸術座」という血統

特集 「芸術座」という血統

シアタークリエへ

「花椿」の贈り物

特集 「花椿」の贈り物

リッチにスマートに、そしてモダンに

俳優たちの聖地「帝国劇場」

特集 俳優たちの聖地「帝国劇場」

演劇史に残る数々の名作生んだ百年のロマン 文=山川静夫

秋山庄太郎 魅せられし「役者」の貌

特集 秋山庄太郎 魅せられし「役者」の貌

役柄と素顔のはざまで

秋山庄太郎ポートレートの美学

特集 秋山庄太郎ポートレートの美学

美しきをより美しく

久世光彦のテレビ

特集 久世光彦のテレビ

昭和の匂いを愛し、 テレビと遊んだ男

加山雄三80歳、未だ青春

特集 加山雄三80歳、未だ青春

4年前、初めて人生を激白した若大将

昭和は遠くなりにけり

特集 昭和は遠くなりにけり

北島寛の写真で蘇る団塊世代の子どもたち

西城秀樹 青春のアルバム

特集 西城秀樹 青春のアルバム

スタジアムが似合う男とともに過ごした時間

「舟木一夫」という青春

特集 「舟木一夫」という青春

「高校三年生」から 55年目の「大石内蔵助」へ

川喜多長政 &かしこ映画の青春

特集 川喜多長政 &かしこ映画の青春

国際的映画人のたたずまい

ある夫婦の肖像、新藤兼人と乙羽信子

特集 ある夫婦の肖像、新藤兼人と乙羽信子

監督と女優の二人三脚の映画人生

中原淳一的なる「美」の深遠

特集 中原淳一的なる「美」の深遠

昭和の少女たちを憧れさせた中原淳一の世界

向田邦子の散歩道

特集 向田邦子の散歩道

「昭和の姉」とすごした風景

あの人この人の、生前整理archives

あの人この人の、生前整理archives
読者の声
Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial
error: Content is protected !!