デパートの屋上は遊園地だった
関東大震災で大きな被害を受けた浅草だったが、昭和に入ると復興し、また震災前のにぎやかさを取り戻してゆく。
昭和六年(1931)に隅田川沿いに出来た松屋(東武鉄道のビルのテナント)は新しい浅草を象徴するデパートになった。永井荷風は日記『断腸亭日乗』で昭和六年十二月十一日に出来たばかりの松屋のことを記している。「花川戸(はなかわど)の岸に松屋呉服店の建物屹立(きつりつ)せり」。
明治生まれの荷風は「松屋呉服店」と昔の言葉を使っている。三越も白木屋も松屋もその前身は呉服店だった。
この松屋の屋上には「スポーツランド」という子供向けの遊園地が作られた。従来、浅草では大事にされていなかった女性と子供を客層にし、これが大人気になった。デパートの屋上が遊園地になった早い例。
昭和十年に作られた、川端康成の『浅草の姉妹』の映画化、成瀬巳喜男監督の『乙女ごころ三人姉妹』には、主演の堤真佐子演じる浅草娘が松屋に行く場面で、この「スポーツランド」がとらえられる。ここではとくに、航空艇と呼ばれるゴンドラが屋上の端から端まで移動するロープウェイが人気だった。
松屋は戦時中、空襲の被害を受けたが、戦後の復興も早く、戦前と同じように屋上を子供のための遊園地にした。
戦前の航空艇にかわって人気になったのが、スカイクルーザーと呼ばれる大観覧車。日本でロケをされたアメリカンのアクション映画『東京暗黒街 竹の家』(55年、サミュエル・フラー監督)にスカイクルーザーが登場するのは映画ファンにはよく知られている。
デパートの屋上から東京一望
まだ高い建物がなかった時代、デパートの屋上は絶好の展望台にもなった。
小津安二郎監督の『東京物語』(53年)では、尾道から東京に出てきた両親(笠智衆と東山千栄子)を嫁の原節子が、はとバスで東京案内をしたあと、銀座の松屋の屋上に連れて行き、広々とした東京の町を見せる。
成瀬巳喜男監督の昭和三十五年(1960)の作品『秋立ちぬ』では、信州から出て来た小学生の男の子(大沢健三郎)が「海を見たい」というので、近くに住む女の子(一木双葉)が銀座の松坂屋の屋上に連れてゆき、そこから東京湾を見せる。
いまでいえばデパートがスカイツリーのような役割を果たしている。この女の子は銀座の隣、築地あたりに住む町っ子で、普段からデパートを遊ぶ場所として使いこなしているのが面白い。
学生たちに人気のアルバイト先
昭和三十年代、学生たちは夏休みや冬休みによくデパートでアルバイトをした。
美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの『ロマンス娘』(56年、杉江敏男監督)では、三人娘が銀座の松坂屋でアルバイトをする。美空ひばりと雪村いづみは玩具売り場。江利チエミは風呂桶売り場(デパートで風呂桶を売っていた!)
石坂洋次郎原作、田坂具隆監督の『乳母車』(56年)では、石原裕次郎が日本橋の高島屋の屋上でアドバルーンを上げるアルバイトをする。アドバルーンが消えたいま懐かしい。
この時代、学生にとってデパートは人気のアルバイト先だった。向田邦子も学生時代、日本橋のデパートで歳末のアルバイトをしたと思い出を書いている(『父の詫び状』)。金物売り場や佃煮売場のレジの仕事をしていた。金物売場では湯たんぽが大いに売れたという。
その向田邦子は、「デパートで一番好きなのは、地下の食料品売り場である」「私にとっては、宝石売場や洋服売場より心の踊る場所なのである」(『夜中の薔薇』)と書いている。いま同じように思う人は多いのではないか。
かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『我もまた渚を枕―東京近郊ひとり旅』『映画を見ればわかること』『銀幕風景』『現代映画、その歩むところに心せよ』『向田邦子と昭和の東京』『東京暮らし』『岩波写真文庫 川本三郎セレクション 復刻版』(全5 冊)など多数の著書がある。