アドバルーンは昭和に生まれた最先端の広告手段だった

『うちの女房にゃ髭がある』が話題になった昭和十一年、アドバルーンは大事件に使われた。
 二・二六事件である。
 青年将校がひき起したクーデターに昭和天皇がいきどおり、すぐに鎮圧されることになるのだが、この時、軍の戒厳司令部はラジオで、蹶起部隊に「今からでも決して遅くないから、直ちに抵抗を止めて軍旗の下に復帰せよ」と呼びかけると同時に、アドバルーンを掲げた。
 そのネットには「勅命下る軍旗に手向ふな」と大きく書かれていた。この時代、アドバルーンが、軍の意志伝達にも大きな役割を果していたことが分かる。

戦後の空に浮かんだ復興の象徴

【写真)現在のアドバルーンの方式は、大正10年に広告代理店業である弘告堂(現・銀星アド社)の創業者である水野勝蔵が考案したのが最初で、二・二六事件が勃発した際には、戒厳司令部より、クーデターの解体目的となるアドバルーン製作を依頼され、「勅命下る 軍旗に手向ふな」という字句が書かれたアドバルーンが現在の西新橋の飛行館屋上から揚げられた。広告字幕には布が使用されていたが、その後ネット(網状)になった。写真提供:銀星アド社

 戦後、日本は連合軍によって占領された(いわゆるオキュパイド・ジャパン)。気球はもともと軍事用だったため、GHQ(連合軍総司令部)によって、アドバルーンは禁止された。
 それがようやく復活するのは、昭和二十七年(一九五二)、対日講和条約の発効によって、占領時代が終ってから。
 翌二十八年に公開された松竹映画、川島雄三監督の『新東京行進曲』は、戦前に、銀座の名門、泰明小学校を卒業した子供たちが、成長して、戦後、再会する青春物語だが、この映画がとらえる銀座の空には、戦前と同じようにまたバルーンが浮かんでいる。
 この映画では、冒頭、当時の東京都知事、安井誠一郎本人が登場し、新聞記者たちと小型飛行機に乗って、東京の町を視察する。

 焼け跡はもうなく、新しい建物が次々に建っている。それを見ながら安井知事はいう。
「東京はこの三十年のあいだに、関東大震災と東京空襲で大きな痛手を受けた。にもかかわらずこうしてまた復興している」
 東京の空にまた浮かぶようになったアドバルーンは「復興」の象徴のひとつになった。

『新東京行進曲』と同じ昭和二十八年に公開された『女心はひと筋に』(杉江敏男監督)という東宝の青春映画がある。
 大学で医学を学ぶ学者の卵の池部良と、芸者の久慈あさみの結ばれない恋を描いている。 
 映画は、銀座の町から始まり、銀座の町で終わる。最後、銀座の夜景。日劇(現在のマリオン)のところにアドバルーンが浮かんでいる。そこには当の映画『女心はひと筋に』の広告文字が。しゃれている。
 アドバルーンを利用したのは、主として、映画館や劇場、そしてデパートだった。
 昭和三十一年に公開された日活映画、石坂洋次郎原作、田坂具隆監督の『乳母車』では大学生の石原裕次郎が、日本橋の高島屋の屋上で、アドバルーンを揚げるアルバイトをしている。降ろす時、二人がかりで綱を引っ張ってる。かなり重労働だったようだ。
 昭和四十年代に入っても、まだ銀座にはアドバルーンが見られた。
 直木賞作家、松井今朝子の回想記『師夫の遺言』(NHK出版、二〇一四年)によると、昭和四十年代、松井さんは大学院の学生だった頃、銀座の小さな広告代理店でアルバイトをしていた。
 銀座の町を歩いて空を見上げ、契約どおりアドバルーンがきちんと揚がっているかどうか確認するのが仕事だったという。
 アドバルーンの最後の時代だろう。

かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『映画を見ればわかること』『向田邦子と昭和の東京』『それぞれの東京 昭和の町に生きた作家たち』『銀幕の銀座 懐かしの風景とスターたち』『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)『君のいない食卓』『白秋望景』(伊藤整文学賞)『いまむかし東京下町歩き』『美女ありき―懐かしの外国映画女優讃』『映画は呼んでいる』『ギャバンの帽子、アルヌールのコート:懐かしのヨーロッパ映画』『成瀬巳喜男 映画の面影』『映画の戦後』『サスペンス映画ここにあり』など多数の著書がある。

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