女優「高峰秀子」と妻「松山秀子」─日本映画史に燦然と輝く足跡と、結婚で得た穏やかな幸福


 オードリー・へプバーンなら『ローマの休日』、原節子なら『東京物語』と、スターには映画ファンの頭にポンと浮かぶ代表作がある。ところが、高峰秀子にはそんな代表作がない。いや、代表作がないという表現は正確ではない。代表作を選ぶことができないのだ。それほど数多くの名作、秀作に出演している。

 5歳で子役として出発し、『綴方教室』で主役に抜擢されたのが14歳のとき。最後の映画出演となった『衝動殺人 息子よ』まで400本近くに出た。出演作の監督を思いつくまま並べれば、木下惠介、小津安二郎、成瀬巳喜男、五所平之助、稲垣浩、豊田四郎、市川崑、増村保造と、圧倒的な顔ぶれだ。黒澤明の名前がないが、17歳で主演した『馬』は監督の山本嘉次郎が掛け持ちで忙しく、実質的にはチーフ助監督の黒澤が撮った作品である。黒澤明は高峰秀子が初めて恋心を抱いた相手でもあった。そんなエピソードを含め、高峰秀子のフィルモグラフィを見ることは日本の映画史を俯瞰することに他ならない。

 とりわけフリーとなった1950年代は、『カルメン故郷に帰る』、『稲妻』、『煙突の見える場所』、『雁』、『二十四の瞳』、『浮雲』、『流れる』、『張込み』、『あらくれ』、『喜びも悲しみも幾年月』など、大女優の円熟期らしい仕事ぶりだった。

 ぼくがあえて高峰秀子の映画を1本選ぶなら、成瀬巳喜男の『浮雲』だろうか。小津安二郎が「オレには撮れないシャシンだ」と言ったように、世界にも類を見ない、男女の腐れ縁を描いた傑作である。会っては別れ、またよりをもどしてという相互依存の愛憎関係は人間の深淵を見せられるようで、何度観ても成瀬らしい暗く底光りした世界に引き込まれてしまう。高峰秀子のすねたような、あるいは不貞腐れたような表情と声にも磁力があり、諦念や絶望の向こうに女の純情を感じさせられる。

▲映画『浮雲』を撮影中の高峰秀子、森雅之、成瀬巳喜男監督。『浮雲』は林芙美子の同名小説の映画化で、水木洋子が脚本を担当し、成瀬巳喜男監督の代表作ともいわれる。1955年の公開で、キネマ旬報ベスト・テンでは、作品賞、監督賞(成瀬)、主演男優賞(森)、主演女優賞(高峰)を受賞し、毎日映画コンクールでも監督賞、主演女優賞を、ブルーリボン賞の作品賞を受賞するなど、多くの賞に輝いた。戦時下の仏印で愛し合った男女が敗戦後も、妻帯者ながら次から次へと女を変える煮え切らない男を、別れを繰り返しながらも追いかける女。高峰演じる地の果てまでも男を追いかけ、やがては男に看取られながら病死する女の生き様は鮮烈で、究極の愛の姿とも映った。岡田茉莉子、山形勲、加東大介、中北千枝子らが共演。高峰は41年の『秀子の車掌さん』で成瀬監督と初顔合わせ以来17本の成瀬作品に出演し、成瀬映画の顔となった。(C)1955 東宝

 
 1955年、高峰秀子は『浮雲』が公開された直後に結婚を発表した。相手は松竹の助監督・松山善三。のちに脚本家や監督として活躍するが、このときは明らかに格差婚だった。二人の関係が分かるこんな微笑ましいエピソードがある。初めて銀座のレストランでデートしたときのことだ。松山は「あなたが先に食べてください。僕は真似します」と言い、それを見た高峰秀子は「なんて素直な人だろう」と思ったという。

 当時、スター女優の結婚は人気の点でマイナスとされた。しかし、そんな定説を覆すように次々に名作に出演し、仕事に没頭した。考えてみれば、高峰秀子は「子役は大成しない」という定説を覆した人でもある。そして、仕事に没頭したからといって、家庭をないがしろにしたのではなく、家にいるときは家庭に没頭した。高峰秀子にとって家庭は夫婦の共通点を見つけるより、お互いの違いを発見し、認める場でもあった。夫婦とは一心同体などではなく、夫は自分と違うのだから尊重できると考えたのである。

▲徳田秋声原作、水木洋子脚本の1957年公開映画『あらくれ』の撮影中の成瀬巳喜男監督と高峰秀子。高峰は、気性が激しく、そのくせ情にほだされやすい大正時代に生きたヒロインお島を演じた。次から次に男に捨てられながらも逆境に負けることなく、自力で運命を切り拓いていく逞しい女。強い女を描くことに定評がある成瀬映画の中でも、ここまで感情をむき出しにするヒロイン像はいまだに強烈な印象を残す。共演は上原謙、森雅之、加東大介、宮口精二、東野英治郎、仲代達矢ら。高峰は『喜びも悲しみも幾歳月』とあわせて毎日映画コンクールの主演女優賞を受賞。(C)1957 東宝

 

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