街頭テレビに群がる大勢の人々
町の中だけではない。団塊の世代の子どもたちは学校にもあふれていた。教室が足りず、引き揚げた進駐軍が使っていたかまぼこ型の簡易兵舎は再利用され学校の教室になっていた。教室不足から、授業を午前中に受けるクラスと午後から受けるクラスを分けての「二部授業」も行われた。
紙芝居は毎日のように、町の中の魚屋さんの奥にあったおじさんの家に見に行った。魚屋をしている店の脇の細い通り道を奥へ行くと6畳ほどの板の間があった。10円銅貨を渡すと、水飴か煮スルメをもらえた。
街頭テレビには大勢の人たちが見入った。日本で、テレビ放送が始まったのは昭和28年2月、NHK東京で、続いて同年8月、日本テレビと続い た。街頭テレビは、テレビ放送の普及・PRも兼ねて全国各地に設けられた。北島の写真は、商店街に設けられた街頭テレビの光景を捉えている。力道山とシャープ兄弟のレスリングだったのか、それとも……。

幼い私は、自宅近くの公園に走った。公園内に設置されたブラウン管テレビの前は大勢の人が詰めかけていた。画面の中で西鉄ライオンズ(西武ライオンズの前身)のエース稲尾和久、南海ホークスの宅和本司が投げ合っていたのか。いや、アンダーハンドの杉浦忠だったかもしれない。西鉄 は、巨人を追われるようにやってきた三原脩監督に率いられていた。バッターには、中西太、豊田泰光、仰木彬らがいた。なんといっても、昭和31 年から昭和33年まで3年連続、日本シリーズで巨人を下し日本一となっていた。最後の年は、3連敗のあと4連勝。稲尾は4勝を挙げ、「神様、仏様、稲尾様」と言われた。野武士軍団と呼ばれた選手たちの戦いに、熱い声援が続いていた。博多の街頭テレビの人気には、そんな時代背景もあった。中央(東京) に対して、地方のパワーを誇れることのできた時代であった。地方に存在感があった。
手作りのどくろの面をかぶった少年たちは、人気テレビ映画「月光仮面」ごっこをやっていた。「正義の味方」に人気があった。「正義」を、みんなが 探していた。町のどこもが子育ての場だった昭和30年代は、生きている実感が町の中に漂い、無欲、無心、ひたむきに生きた時代だった。人間の中で人間を知ることができた。
そうした一方、昭和31年の経済白書は「もはや戦後ではない」と書いてい る。神武景気の始まりでもあった。白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機という家電が「三種の神器」とされた。朝鮮戦争に続く東西冷戦、日米安全保障条約の改定で米国頼み、欧米の価値観を求めながら東京オリンピックをめざしていたニッポンは、欧米の経済合理主義にあこがれ、モノ・カネが顔を効かす効率優先社会、競争社会へとまっしぐらに進んでいく。水俣病、イタイイタイ病といった環境破壊の影も忍び寄っていた。

