村松友視の 箱根時間

SPECIAL FEATURE 2009年9月25日号


十年前、箱根の老舗旅館の大おかみから聞いたぶれということの魅力。今回の村松友視さんの箱根旅行は、そこから始まりました。十年ぶりに訪れた旅館の変わらぬさりげなさ。大おかみの以前にもまして凛とした艶やかさ。社交の華が開いた芦ノ湖畔のクラシック・ホテル。旅情を演出する濃い霧の幕。近代数奇の三大茶人によってつくられた茶室に漂う天衣無縫な精神。そして、胸に去来する思い出の人々。箱根を舞台に過去と現在を往来する、村松さんの時の旅へご一緒しましょう。
Photo:Tadashi Okakura

伝説の旅館の大おかみとの
十年物目の邂逅

 新宿から乗った小田急ロマンスカーの席にゆったりと腰をしずめ、窓外をはしり去るけしきを打ちながめていた私は、ふと塔ノ沢の老舗旅館「福住楼」の大おかみの言葉を思い出した。十年ほど前に、福住楼へ行ったとき、大おかみが言われた何げない言葉が、時をへるごとに私の中でくっきりとしてきている。そのことへ不意に思いが向いたのだった。

「福住楼」は、今年で創業以来百二十年を迎える歴史、渓流早川にかかる千歳橋の袂たもとにある立地条件、多棟式木造三階建の建物の奥に長くのびるゆるやかな空間、福沢諭吉、夏目漱石、島崎藤村、巌谷小波、大佛次郎、川端康成、吉川英治、林芙美子、川合玉堂、坂東妻三郎その他数々の文人墨客の常宿としてのものがたりにつつまれている老舗旅館だ。箱根湯本駅から歩いて十分ほどのところに、この伝説の旅館がしっとりと存在しているさりげなさに、感服したものだった。

あのとき大おかみは、ご自分の日常的な食事について話された。食通をも満足させる月替りの会席料理が「福住楼」の自慢だが、大おかみはあえてご自身手づくりの食事をされるという。そして、素人の料理はぶれが武器ですからね……と言われた。その言葉が、私の中でいまも息づいている。

職人の料理とちがい、素人の料理は毎日の御飯の炊き方、魚の焼き方煮方、味噌汁の味かげんなどのすべてに、微妙なぶれが生じる。だから同じ献立でも味わいがちがい、飽きることがないのだと説明して、大おかみはにっこりと笑みを浮かべられた。味のぶれについては、ネガティブに語られることが多いが、素人料理はぶれが武器だという大おかみの言葉は新鮮だった。

 大おかみの澤村緑子さんは、箱根湯本駅の改札口の外に、あのときと同じように趣のある着物姿で立ち、とびきりの笑顔で迎えてくれた。少しも変わらぬその表情姿かたちに、私はちょっと神秘的な心持にさせられた。本当に十年がすぎたのだろうか、という気分のまま、私は「福住楼」へと案内された。「福住楼」は、地盤の勾配に逆らわずに建てられていることにより、外観としても部屋からのけしきとしても、特別の興趣を生んでいる。大地の自然のかたちを支配することなく、渓流と岩盤に寄り添うように建つ「福住楼」のありかたが、かつての文人墨客の自然観と馴染んだのだろう。そんなことを思いつつ、澤村緑子さんに案内されて、建物の奥へ奥へとあとて、けしきのさまざまな変化を味わううち、舞台のある広間へ向かうその勾配に沿ったながい廊下が、箱根への旅の贅沢な花道に思えてきたのだった……。

ぶれの魅力が味わいの
クラシックホテル

「小田急 山のホテル」のロビーには、チェックインの順番を何組かの人が待っていたが、その場の雰囲気が、何となく大人らしい自然さにみちていた。ホテルの従業員たちもまた、ホテル特有のクールさを軸としていながら、日本の宿のやわらかいもてなしのあたたかさをも加えるような迎え方をしていた。

「小田急 山のホテル」のものがたりは、もともと岩崎小彌太男爵の別邸が建てられていた土地につくられたのを源としている。眼前にひろがる芦ノ湖と雄大な富士山の姿にめぐまれた景勝地に、一九一一(明治44)年当時としてはめずらしい、高原の別荘としてつくられた。岩崎夫妻は大の客好きで、狩猟、ゴルフ、ボート遊びなどを楽しむことのできる別荘に多くの客を招いてともに楽しんだ。やがて、来客の宿泊のための和室が何室かつくられ、食事はすこしあらたまってダイニングでというスタイル……それは、今日からは想像もできぬ別荘ライフだったはずだ。

「山のホテル」とは、何とシンプルで清々しい命名だろう。そして、画家の佐野繁次郎氏によってつけられた”Hôtel de Yama” というフランス名には、スイスのレマン湖のほとりの古城をイメージして建てられたという、現在の「山のホテル」にもふさわしいセンスがあらわれているようだ。洋と和の境界線がにじんで溶けて融合したあげくの、独特の世界が成り立っているのは、もともと火山の活動によってつくられた地形をもつ箱根という比類ない舞台の上に、「山のホテル」が存在しているからにちがいない。

「山のホテル」の現実の光景と過去のものがたりに、私はひとつに絞りきれぬぶ れの魅力を思いかさねた。ぶれのないプロのルールを芯にもちながら、自然に身をゆだねて生きる日本人らしいもてなしの心をかさねるのに、箱根はきわめてフィットする空間なのだろう。部屋の窓からの折々のながめは、精力的に観光にいそしむこの苦手な私などが、ゆったりと時をすごすのにうってつけだ。

𠮷松寿己シェフによる秋の料理は、ホロホロ鳥とフォアグラのバロンティーヌ、 カニのガレット、自家製カラスミなどが一皿に盛られた「秋香る一品」と題し た前菜、甘長唐辛子ラタトゥユ詰め、小松菜のバターソテー生ハムあしらいな どの付け合せを添えた和牛ロースの炭火焼赤ワインのキノコソースなど。

「山のホテル」にて
特権的な文化の余り
風にひたる

 ホテルに近い桟橋から観光船に乗り、芦ノ湖を周遊するのが億劫なときは、桟橋の上に立って往年のハリウッド映画の、渋い脇役の気分にひたりちこめた濃い霧を、私はうっとりとながめた。編集者時代に担当していた水上勉さんの軽井沢の別荘へ、原稿取りに行ったときのことを思い出したからだった。

 私が到着すると、待ちかまえるように玄関に立っていた水上勉さんが、「どや、霧でもご馳走しよか」と、霧の濃い場所へ案内してくれた。たしかに、あれは最高のご馳走だった。霧は、けしきにとびきりのぶれを与えて、極上のご馳走に仕上げてしまう曲者だからなあ……私は、水上勉さんの思い出にそんな呟きをからめた。

 次は五月のツツジの季節に誰か(誰もいなければカミさんでもいいか)とこのホテルへやって来て、日本のある時代に奇跡的に花ひらいた特権的な文化の余り風に、もう一度ひたってみようと思った。たしかにここには、庭園で「山のホテル」の位置を基準に時を刻む日時計に象徴される、フィクションを道連れにした時間が、日本標準時と併行して、悠然とながれているのである。

 

不思議な開放感につつまれる
白雲洞茶苑

「山のホテル」から箱根湯本駅へ向かう前に、私は強羅温泉の白雲洞茶苑に寄ってみたいと思った。霧のご馳走を満喫したあと、心が侘わびに向いてきたということか……いやこれはもちろん冗談だ。もとより私に茶ごころなどあるはずもないが、「山のホテル」で味わった霧は、さまざまな思い出の人を引き寄せてくれ、そのひとりが数年前に亡くなられた数江教一先生だった。数江先生は瓢 鮎子(ひょうねんし)の号をもつ表千家の御茶人でもあり、中央大学の名誉教授でもあった方だが、私はひょんなきっかけで近しくおつきあいをさせていただいた。その数江先生から時おり、茶人としての松永安左ヱ門のことを聞かされたのだった。


 白雲洞茶苑は、大正のはじめ鈍翁(どんのう)・益田孝によって建設され、三渓・原富太郎に引きつがれ、さらに耳庵(じ あ ん)松永安左ヱ門がこれを継承したという。いずれも日本経済発展の推進者であり、近代数奇(すき)の三大茶人と呼ばれた存在だ。霧数江教一先生、松永安左ヱ門、白雲洞茶苑……まことに勝手な意識のよこばいで、その奥には何もないところが私流というところか。

 だが、白雲洞、不染庵、対字斎、それに寄よりつき付をふくめた四棟の席が、巨岩のあいだを縫うようにつくられているのを見て、目をみはった。それ自体が見事な構成となっているのもたしかだが、ここにもまた自然の地形に寄り添う文化があったという発見に、意表を突かれたからだった。

〝草庵侘茶席〞をふまえた上での、何とも自由な精神が、茶室建築に反映されていて、茶室の形式的な束縛から人の心を解放するのが眼目のようだ。贅沢を廃し楽茶碗と一畳半の茶室というところまで極められたあとの、さてその先は……という疑問への答のヒントが、岩場につくられた四棟の天衣無縫な発想の中に、いくつもちりばめられているようだった。

 三溪の作であり、鈍翁筆の「対字斎」の額がかかげられる対字斎から、正面に大文字山の「大」の字を遠望すると、馴れぬ茶室に坐る不粋な私からも窮屈を引き抜いてくれるようで、不思議な解放感につつまれた。伝統、数奇、近代、現代、思い出、現在(いま)などの境界線があいまいになっていく。こりゃ茶の湯のいいとこどりではないか……そんな不埒な思いがわいたのは、あきらかに「山のホテル」でつつまれた、霧のいたずらにちがいなかった。私は、ぶ れの奥深さと箱根という火山がつくった環境の中で、新しさと古さが奔放に交錯するかのごとき、変幻自在の謎かけを楽しみながら、点てていただいた御茶のぬくもりを、両の掌の内で感じ取っていた……。

 

 

2009年9月25日 Vol.1より
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