次にご紹介するのは、第二弾でご紹介したNHKの歌謡番組「レッツゴーヤング」の放送が始まった昭和49年にデビューし、愛くるしいルックスと女の子のような甘い歌声で、70年代アイドル全盛期の一翼を担ったあいざき進也。同時期の男性アイドル歌手には「イルカにのった少年」の城みちる、「太陽の日曜日」でデビューし、後に劇団四季ミュージカルで活躍する荒川務、「汚れなき悪戯」や「星めぐり」がヒットした豊川誕(とよかわ じょう)らがいる。デビュー曲の「気になる17才」は、〝レッツヤン〟はじめ、当時の歌謡番組で、頻繁に披露されていたので、今でも耳に残っている。城みちると荒川務は昭和49年の日本レコード大賞の新人賞に選ばれたが、あいざき進也は選ばれなかったのが、当時不思議な気がしたのを思い出す。芸能雑誌や雑誌「女学生の友」などの表紙を飾ったり、明治製菓のチョコレートのテレビCMにも起用されていて、トップアイドルとして活躍していた印象があったからだろう。フジテレビ系列の第1回FNS歌謡祭では、新人賞を受賞していた。
オリコンチャートで、初のベストテン入りを果たしたのは、昭和50年リリースの6枚目のシングル「恋のリクエスト」だった。そういえば、チョコレートのCMソングとしてヒットした「愛の誕生日」の作曲は、「ドラゴンクエスト」の作曲家として知られるすぎやまこういちだった。また、70年代に年1回か2回放送されていた、歌手、俳優、コメディアンたち総勢約200名が一堂に会し紅白に分かれてさまざまな競技でしのぎを削り合ったフジテレビ系の特別番組「オールスター紅白大運動会」は、西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎をはじめとするトップアイドルたちが出演するとあって人気があったが、あいざき進也も走り高跳びなどで、抜群の運動神経を披露し、見せ場を作っていたことも記憶に残っている。
現在も現役として歌手活動を続けている。ここ10年くらいは、フォーリーブスの江木俊夫、狩人の加藤高道、フィンガー5の晃と共にユニットTASTE4を結成し、ライブやディナーショーを定期的に実施していた。いずれも昭和のある時期、アイドルとして脚光を浴びたメンバーだけに、彼らと同時代に青春を過ごした観客たちで盛り上がっているときく。あの可愛らしい声で「気になる17才」を今一度聴いてみたい。
さて、ここからは大人の女性歌手たちに登場してもらおう。まずは、2018年に芸能活動を引退した奥村チヨ。奥村チヨの歌声が初めて耳に届いてきたのは、昭和40年にリリースされた4枚目のシングル曲「ごめんね…ジロー」だった。〝和製シルヴィ・バルタン〟との触れ込みでのデビューで、甘えたムードの歌声、蠱惑的な魅力は世の男性たちの心をとらえた。また、〝ミニ(スカート)の女王〟と呼ばれたイギリスのモデル、ツイッギーを思わせる文字通り〝小枝〟のような華奢なスタイルで、華麗なファッションも披露していた。デビュー当時からの体形は引退するまで、しっかりと維持されていた。
当時、所属レコード会社の東芝は、黛ジュン、小川知子、奥村チヨを〝東芝3人娘〟と称していたが、昭和40年から47年まで、TBS系で日曜(土曜の時期もあり)の午後の時間帯に放送されていた、東芝協賛の音楽番組「東芝 歌うプレゼントショー」に、この〝3人娘〟がよく出演していた。黛ジュンの「恋のハレルヤ」「霧のかなたに」「乙女の祈り」「天使の誘惑」「夕月」「雲にのりたい」、小川知子の「ゆうべの秘密」「初恋のひと」「銀色の雨」などは、この番組で知った。また、当時の人気歌謡番組「夜のヒットスタジオ」にも3人はたびたび出演していた。ベンチャーズが作曲した奥村チヨの「北国の青い空」が好きだった。
奥村チヨの曲と言えば、昭和44年から45年にかけてリリースされた「恋の奴隷」「恋泥棒」「恋狂い」の〝恋3部作〟だろう。作詞はいずれも、なかにし礼が手がけている。奥村チヨのコケティッシュな魅力が、官能的な領域にまで昇華した作品群である。〝あなた好みの 女になりたい〟と歌う「恋の奴隷」は、男性の心はつかんだが、女性たちからは反感を買ったかもしれない。昭和44年にNHK紅白歌合戦に初出場したときには、「恋の奴隷」ではなく「恋泥棒」を歌った。「恋の奴隷」の歌詞の一部が、NHKの内部規則に抵触することを回避するためだったと伝わる。昭和44年の紅白初出場組は、紅組がいしだあゆみ、「時には母のない子のように」のカルメン・マキ、由紀さおり、森山良子、「みんな夢の中」の高田恭子の6組に対し、白組は内山田洋とクールファイブ、「グッド・ナイト・ベイビー」のザ・キングトーンズの2組だった。
奥村チヨは通算で3回紅白に出場しているが、昭和47年の3回目の出場で歌ったのは「終着駅」だった。それまでの奥村チヨのイメージとは色彩の異なる、シックなムードのフランス映画の1シーンを思わせるような歌で、奥村チヨは、こういう歌を歌いたかったのではないかと思わせるところがあった。作詞は千家和也、作曲は後に夫君となる浜圭介である。
歌手活動にピリオドを打った奥村チヨだが、〝恋3部作〟に続いて昭和45年にリリースされた「くやしいけれど幸せよ」と「中途半端はやめて」の2曲を今一度、当時の歌謡番組の映像で観てみたい。
さて、続いて紹介するのは2020年に亡くなった梓みちよ。梓みちよと言えば、「二人でお酒を」での胡坐をかいて歌う絵柄から、どこか姐御的な印象を抱く人が多いかもしれないが、デビュー当時のイメージは清潔で清純なものだった。なんてったって「こんにちは赤ちゃん」である。この曲は、NHKの人気バラエティ番組「夢であいましょう」で、昭和38年7月の今月の歌として紹介されるや大きな反響を呼び、同年11月にリリースされ100万枚を超える大ヒット曲となり、12月には日本レコード大賞を受賞、NHK紅白歌合戦にも初出場となった。作詞は永六輔、作曲は中村八大の名コンビによる楽曲である。小林桂樹と八千草薫で映画化(松林宗恵監督)され、本人も出演している。昭和39年には学習院初等科同窓会に招待されて、昭和天皇の御前でこの歌を披露したことから、「こんにちは赤ちゃん」は、日本芸能界初の天覧歌謡曲とも言われている。
昭和41年に放送されたテレビドラマ「お嫁さん」の第1シリーズでは、主演のお嫁さんを演じている。この物語は嫁ぎ先で、新たな家族や近所の人々に見守られながら成長していくという、新妻のけなげな姿をさわやかに描いたホームドラマで、梓みちよはみんなに愛されるお嫁さんを演じていた。今でいうところの好感度抜群だった。夫役は関口宏だったが、もしかすると関口宏が俳優だったことを知らない人たちが、今や多いかもしれない。梓みちよは主題歌も歌っていた。
デビュー当時から、田辺靖雄と組んで「ヘイ・ポーラ」「けんかでデイト」「いつもの小道」など数多くの楽曲をデュエットしており、さわやかなコンビと評判だった。映画『こんにちは赤ちゃん』でも、カップル役だった。紅白にも昭和38年、仲良く初出場を果たしている。同年の初出場組には、「島のブルース」の三沢あけみ、セーラー服姿で「林檎の花咲く町」を歌った高石かつ枝、「出世街道」の畠山みどり、倍賞千恵子、中尾ミエ・伊東ゆかり・園まり(スパーク3人娘として)、北島三郎、オペラの立川澄人、田端義夫、ダーク・ダックス、デューク・エイセスと並ぶ男性4人のボーカルグループのボニー・ジャックス、舟木一夫がいる。梓みちよは通算で11回、紅白に出場している。
梓みちよのイメージがガラッと変わったのは、前述の昭和49年リリースの「二人でお酒を」からだろう。曲の途中から、床に座り込んで胡坐をかいて指を鳴らしながら歌う姿には、誰もが驚いただろう。同年の日本レコード大賞で、山口百恵の「ひと夏の経験」などと一緒に大衆賞を受賞したときの授賞式で、司会の森光子が「こんにちは赤ちゃんが、今や胡坐をかいて歌います」というようなニュアンスの紹介をしていたことを思い出す。この曲で5年ぶりに紅白にも復帰出場した。その後も、「淋しがりや」「あかいサルビア」、吉田拓郎作曲の「メランコリー」、阿木燿子作詞、筒美京平作曲「よろしかったら」、「小心者」など、大人の〝ちょっといい女〟の人生経験を匂わせるような、梓みちよならではと唸らせる、洒落て小粋ないい曲を歌っている。忘れられないのが、「夜のヒットスタジオ」で、床に座って〝ママ アイ ラブ ユー〟と歌いながら、曲のエンディング近く白いドレスに赤ワインをドボドボとかける梓みちよ。そして〝ところであなた、今の今まで私のことを女だと思っていた?〟とセリフを語る梓みちよのすごみは、今でもあざやかに目に焼き付いている。ちなみに曲名は「ナラタージュ」。この人もドラマチックな歌を聴かせることのできる、数少ない歌手の1人ではなかったかと思える。
最後まで歌唱力の衰えを感じさせることなく、生涯現役の歌手を貫いた梓みちよ。昭和41年にリリースして紅白で歌ったとき、吉永小百合ら紅組歌手がバックコーラスについた「ポカン・ポカン」、昭和42年の曲で、やはり紅白でも歌った「渚のセニョリーナ」を聴いてみたい。