さて、いよいよラスト15人目の歌手を紹介しよう。梓みちよと同じく、2020年に鬼籍に入った弘田三枝子の登場である。多くの人たちが、「人形の家」以降の、目元がパッチリしたスレンダーな姿の、弘田三枝子の姿を思い出すだろう。だが、昭和36年にヘレン・シャピロのカバー曲「子供ぢゃないの」で東芝からデビューした頃は、ふっくらとした健康優良児的な容姿だった。14歳の中学生としては、当然だったかもしれない。ずば抜けた歌唱力と、パンチの効いた歌声で、〝パンチのミコちゃん〟と親しまれる人気者だった。
昭和37年にTBS系で放送されていたテレビドラマ「シャボン玉ミコちゃん」「花の番地」などに主演し、元気ハツラツ、若さあふれる高校生の女の子を演じていた。ちなみに「シャボン玉ミコちゃん」には、ミコちゃんの友人役で園まりも出演していた。同年には、田辺製薬(現・田辺三菱製薬)のテレビCMでも、「アスパラで生きぬこう」のコマーシャルソングを元気いっぱいに歌っていた。コマーシャルソングと言えば、昭和39年のレナウンの「ワンサカ娘’64」を歌っていたのも弘田三枝子である。
デビュー当時は、洋楽をカバーした和製ポップスを歌ってヒットさせており、〝和製R&B娘〟〝ダイナマイト娘〟などとも呼ばれていた。カバーのヒット作品には、ニール・セダカの「すてきな16才」、コニー・フランシスの「ヴァケーション」、スーザン・シンガーの「悲しきハート」、ミーナの「砂に消えた涙」、ジリオラ・チンクエッティの「ナポリは恋人」、フランス・ギャルの「夢みるシャンソン人形」などがある。「子供ぢゃないの」や「ヴァケーション」の訳詞は漣健児で、訳詞というよりほとんどオリジナルの〝超訳詞家〟として今でも伝説的に語られる人物である。坂本九の「ステキなタイミング」、飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」「悲しき街角」、中尾ミエの「可愛いベイビー」などの訳詞でも知られる。弘田三枝子をプロデュースした草野浩二氏は、東芝の名物ディレクターで、漣健児の実弟である。
また、アメリカのロック、カントリーミュージックのポップ・スターとして人気があったブレンダ・リーが、昭和40年に来日し、TBSで特別番組「ブレンダ・リー ショー」が制作されたとき、弘田三枝子は共演者として番組に招かれている。身長145センチの小柄な体で、迫力の歌声を聴かせ〝リトル・ミス・ダイナマイト〟と呼ばれたブレンダ・リー。弘田三枝子は、まさに〝和製ブレンダ・リー〟であった。同年には、東洋人歌手として初めてアメリカの「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に招待され、ジャズのスタンダード「マック・ザ・ナイフ」や「ムーン・リバー」を歌ったという。もっと、リスペクトされていい歌手だったのである。
デビューの翌年、昭和37年に「ヴァケーション」で、NHK紅白歌合戦に初出場を果たしたときは15歳である。昭和48年の森昌子の登場まで、紅組最年少出場記録保持者であった。紅白には、昭和37年から40年、昭和42年、昭和44年から46年の通算8回出場しているが、昭和44年に登場した弘田三枝子は、それまでとは違うヴィジュアルだった。そこにいたのは、元気ハツラツなミコちゃんではなく、ダイエットにより見事に変身した大人の女性だった。当時ライブハウスなどで、小規模のジャスライブを中心に活動していた弘田三枝子の久々の表舞台登場に、メディアは華麗なるカムバックなどとはやし立てた。出版した『ミコのカロリーBOOK』は150万部を超える大ベストセラーになったと言われる。歌うは「人形の家」。
昭和44年10月20日付オリコンチャートで首位となった「人形の家」で、弘田三枝子は日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。レコード大賞は、この年から大晦日にテレビ生中継で全国放送が開始され、司会は高橋圭三と、同年「愛の化石」が大ヒットした浅丘ルリ子が務めた。浅丘は紅白のゲスト審査員にも選ばれていたので、さぞかし移動が大変だったことだろう。大賞は佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」、最優秀新人賞は「夜と朝のあいだに」のピーターだった。弘田は紅白では、後半戦トップバッターを務めている。
翌、昭和45年の紅白で弘田三枝子が歌ったのは「ロダンの肖像」。この当時、弘田は、日本コロムビアの専属だったが、この年の紅組歌手は、美空ひばりを筆頭に、島倉千代子、都はるみ、いしだあゆみ、ちあきなおみ、辺見マリ、森山加代子、伊東ゆかりと24組中9組がコロムビアの歌手だった。さまざまな魅力の歌手たちがそろい見応えがあった。
2020年、訃報に接した山下達郎は、TOKYO FM「山下達郎サンデー・ソングブック」で、「戦後最高の力量をもつシンガーの一人の方でございます」として、弘田がカバーした「悲しきハート」をかけ、オリジナルのスーザン・シンガーよりも「はるかにすぐれたバージョン。16歳とは思えない素晴らしい歌唱力」と評した。
サザンオールスターズの桑田佳祐もまた、TOKYO FM「桑田佳祐のやさしい夜遊び」で、「存在自体がポップ。ビート感いっぱいのポップスで、笑顔、ダンスを画面いっぱいに、歌われていた。とにかくナンバーワンでした。チャーミングでね、みんなの憧れで。鉄腕アトムと植木等さん、弘田三枝子さんが、我々の青春期にいてくださった」と追悼した。桑田は1983年のアルバム『綺麗』で、弘田をテーマにした楽曲「MICO」を収録しており、「平成三十年度!第三回ひとり紅白歌合戦」では、「人形の家」を歌っていた。
梓みちよ同様、弘田三枝子も生涯現役歌手を貫いた。弘田のカバーポップスのメドレーに加えて、アニメーション「ジャングル大帝」のエンディング曲、冨田勲作曲「レオのうた」を今一度聴いてみたくなった。
フランク永井、アイ・ジョージ、神戸一郎、北原謙二、水原弘、ペギー葉山、朝丘雪路、青山和子、九重佑三子、日野てる子、都はるみ、青江三奈、島和彦、荒木一郎、ヒデとロザンナ、欧陽菲菲、渚ゆう子、ジャニーズ、フォーリーブス、中原理恵、高田みづえ、河合奈保子……まだまだ紹介したい歌手たちはたくさんいる。配信などで、好きな音楽がいつでも聴くことができる時代ではあるが、他方で、レコードやカセットテープなどの人気が再燃しているとの嬉しい声も聞こえてくる。それにしても、昭和の歌謡番組が懐かしい。コンサートのようにじっくりと一人の歌手の歌を聴かせてくれる番組も魅力的だが、世代を超えて、大人から子供までみんなが楽しめる、娯楽としての歌謡番組があってもいい。15人の歌手を紹介していく中で、そんなことを思った。昭和の紅白歌合戦の入場行進、応援合戦、応援電報、バンドも紅組、白組にわかれていたことなども思い出されて懐かしい気持になった。やはり、昭和は遠くなりにけり、なのだろうか。
プロマイドもまた、あの日あの時の自分自身や家族のことなどを思い出させてくれる、大事な昭和の文化であることも実感した。桜田淳子239版、あいざき進也132版、奥村チヨ105版、梓みちよ63版、弘田三枝子168版のプロマイドがマルベル堂には所蔵されている。