好きなことに命がけで生涯向き合うこと

岩谷時子の〝作法〟とは何だったのだろう。
「書けなくて何日も寝られないというようなことはなかったんですか」という質問に彼女はこう答えてくれた。
「かなりありました。ミュージカルは全部そうですね」
宝塚での越路吹雪上演作のシャンソンの訳詞をしていた岩谷時子が、日本のミュージカルの歴史を作った訳詞家であることはあまり語られていないかもしれない。
外国語の作品を日本語で歌う。その代表作が『レ・ミゼラブル』である。初演は1987年。ロンドンで初めて上演されてから二年後、すでに世界30カ国以上でヒットしてからの日本上陸だった。
その答えは、こう続いていた。
「作者が言おうとしていることと私が書いた言葉が違ってるんじゃないかとか。私が間違いを犯してるんじゃないかと思ったり。命がけでやってますし。簡単に言えば真面目なの」
最後の「真面目なの」は笑顔の冗談口調である。でも、さらりと口にした〝命がけ〟は、こちらの胸に刺さった。
『レ・ミゼラブル』初演の際、途中から加わった彼女は三日三晩徹夜で詞を書き直していたという。それ以降、再演のたびに新たな手直しを加えていた。しかも稽古の現場に泊まり込んで作業をしていたというのである。
彼女は「嫌な思い出は全くないですけど、死にものぐるいだったことは憶えてます」と言った。
その時、彼女は70代にさしかかっていた。若い役者やスタッフの間に混じって辛いと思うことはなかったのだろうか、と思った。
「一行でも二行でも、もっと良い言葉はないか、と思って過ごしているわけですから、辛くても好きなことをしているわけで、やりたいことが出来る人間は幸せですよ。恋をして泣くより全然良いです」
それが彼女の〝作法〟だったのではないだろうか。越路吹雪のマネージャーをしながらも報酬のような金銭は受け取らなかったという話は有名だ。
生涯、好きなことに没頭すること。もし、それが出来ているとしたら、そこに命がけになること。取り乱したり、愚痴や泣き言を言わないこと。現場に居続けること。そして、付け加えれば、笑顔を絶やさないこと──。
今年は彼女の生誕100年の年だ。
僕は、今年70歳になる。
彼女のそんな言葉が、今の指針である。
取材中に90歳の誕生日があった。
初めて、恋人でもない女性にバラの花束を持って帝国ホテルに向かった。
その時の彼女の笑顔は僕の一生の宝物だ。





いわたにときこ
作詞家、詩人、翻訳家。1916 年3月28日、京城(現在のソウル)で生まれる。5 歳の頃に兵庫県西宮市に移住。神戸女学院英文科在学時代から「宝塚グラフ」や「歌劇」に投稿、卒業後、39 年に宝塚歌劇団出版部に入社。そこで15 歳のタカラジェンヌ越路吹雪と出会い、越路の上京にあたりマネージャー代わりに一緒に上京、51 年から63 年までは東宝文芸部に所属した。越路の生涯にわたりサポートを続け、越路が歌うシャンソンの日本語訳詞を手がけた。また、ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」、岸洋子「夜明けのうた」、加山雄三「君といつまでも」「旅人よ」、ピンキーとキラーズ「恋の季節」など作詞家として数多くのヒット曲を生み出した。さらには劇団四季の『ジーザス・クライスト=スーパースター』『ウエストサイド物語』『コーラスライン』『エビータ』『ミュージカル李香蘭』、宝塚『ガイズ&ドールズ』『ME AND MY GIRL』『グランドホテル』、東宝『王様と私』『南太平洋』『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』などミュージカルの訳詞も手がける。64 年「ウナ・セラ・ディ東京」「夜明けのうた」で、66 年「君といつまでも」「逢いたくて逢いたくて」(園まり)で日本レコード大賞作詞賞、69 年「いいじゃないの幸せならば」(佐良直美)で日本レコード大賞を受賞。79 年にミュージカルに於ける訳詞の成果に対して菊田一夫演劇賞特別賞受賞。93 年、勲四等瑞宝章受章。2013 年10月25日死去、享年97。
たけ ひでき
1946 年、千葉県船橋市生まれ。69 年、タウン誌のはしりだった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、音楽番組パーソナリティとして活動中。『読むJ‐POP・1945 ~2004』『70 年代ノート』『陽の当たる場所~浜田省吾ストーリー』『ラブソングス ユーミンとみゆきの愛のかたち』『いつも見ていた広島 小説吉田拓郎 ダウンタウンズ物語』『みんなCM音楽を歌っていた 大森昭男ともう一つのJ‐POP』『歌に恋して―評伝・岩谷時子物語』など多数の著書がある。日本のロックポップスを創成期から見続けている一人。